小説
子守歌は絵本の中に
 アランが鉄面皮で当然のようにヘルムートのロールケーキを食べ始めている中、老人はよろよろと席を立つ。

「才は知っておいた方が何かと便利じゃぞ。これで将来が約束されると言っても過言ではない。
 …どれ。嬢ちゃんの才も、調べてやろうかの」

 思ってもない提案に、リーファは顔を上げた。

「え、あの、いいんですか?」
「検査キットが余っておったからの。んーと、ここじゃったかな?」

 老人は階段下に収納されてた大きな箱を開けて、がちゃがちゃと漁り始めた。
 いくばくかして、本を一冊取り出す。
 本を開き、中に入っていた紙袋から紙を取り出して、リーファに渡してきた。

「これに、嬢ちゃんの体液をつけるんじゃ」

 受け取った紙を手に取り、裏表を確認する。大きさは手のひらよりも一回り小さい。裏も表も白く、インクがよく染み込みそうな紙だ。

「体液…血とかですか?」
「そんな面倒な事はせんでいい。紙をペロペロ舐めておくれ」
「ああ、はい。…今ケーキ食べちゃいましたけど、大丈夫ですよね?」
「大丈夫大丈夫」

 促されて、リーファは紙の真ん中辺りを舐め始めた。
 二、三度舐めた位では何も起こらない。唾液で濡らす範囲を広げ、リーファは舌を滑らせた。

 その様子を眺めていたヘルムートがにやにやして、ケーキを完食したアランに話を振る。

「何か、いやらしいね」
「そうだろう?毎晩訓練させてるからな」
「ああ、道理で」
「く、訓練なんかしてませんから。
 …あ。何か、色が変わってきましたよ」

 リーファが紙を見ると、舐めた場所が青緑色に変色してきていた。
 何となく気になって舌を出してみるが、別にこの色が舌についてきている訳ではなさそうだ。

 老人がソファに座り直し、紙をしまっていた本をめくり出した。

「見せてみるがいい。
 ………………………ふむ、ピーコックグリーンじゃな。”セイレーンの声”かの」

 才の名が分かり、リーファはその名に由来する魔物の事を思い出す。
 人間女性の顔と胴体、鳥の手足を持つ海の魔物だ。

「セイレーン…って、歌で人を惑わして船を沈めるっていう、あの?」
「うむ。この声を持つ者は、あらゆる者の興味を自分に引き付ける力がある」
「でも私、音痴ですよ?」
「”セイレーンの歌”であれば、歌ってる時のみ作用するじゃろうが、これは声じゃからの。
 いかなる声であっても、周囲の気を引いてしまうわけじゃ。
 政治家や王が持っておれば活かせたじゃろうがのう」
「へー………私じゃあ、あんまり活かせそうにないですね…」

 リーファは過去の諸々を思い出す。

 挨拶をすれば『今日も元気ね』と近所の人に言われたし、宿屋の給仕や診療所の受付をしていた時は『よく通る声ね』と褒められた事はそこそこあったのだ。
 逆に、家で歌いながら掃除をしていたら夜勤明けの近所のおじさんに怒鳴られた事もあり、歌う事は止めてしまったのだが。

(この才が、良くも悪くも作用していたのね…)

 ヘルムートのように耳が良い才を持つ者もいないとも限らない。
 側女として城で過ごす事になったのだから、今まで以上に言葉遣いに気を付けなければならないだろう。

「…なるほど、そういう事か」

 砂糖の味しかしなさそうな紅茶を美味しそうに飲んでいたアランが、どこか愉しげに口を挟んだ。

「…何がですか?」
「ずっと考えていたのだ。お前を見てると、無性に弄りたくなるのは何故かと」

 言葉の意味に気付き、リーファの表情が険しくなった。

「こ、声が原因だって言うんですか?」
「爺。声ならどんなものでも気を引いてしまうのだったな?」

 半眼で嬉しそうなアランの問いかけに、老人は本を見ながら淡々と答える。

「ええアラン殿下。歌声はもちろん、悲鳴、怒号、喚声、嬌声、何にでも作用しますな。
 嬢ちゃん、子供の頃よく苛められたりはせんかったかい?」

 思い出したくもない思い出を引きずり出されて、リーファの血の気が引いて行った。
 軽い目眩を覚える程に感情は振れ、俯いて気分の悪さを紛らわす。
 まさかまさか、と思いながらもリーファは老人に答えた。

「う、あ、ありました………。
 後で聞いたら、『好きだからいじめた』とか訳分かんない事言われて…。
 結局その子の家族が引っ越すまで、えらい目に…」
「それも、声に寄る所が大きいのう。
 ”セイレーンの声”は中毒性が高くての。
 長らく聞き続けた者は、”声”を聞いていないと落ち着かなくなる事がある。
 手っ取り早く声を出させるなら、暴力に訴えるのが一番じゃからのう」
「そ、そんな…」

 がっくりとうな垂れるリーファに、アランはさらなる追い討ちをかける。

「私はもう手遅れだな。毎晩声を聞いていないと気が紛れない。
 ああ、そろそろ手が震えてきたな。今日はどうやって啼かせてやろうか」

 凶悪な笑みを向けてきたアランに、リーファは身を竦めた。
 さすがにこの感情は、かつての苛めっ子がリーファに向けてきたものではないが、それでも”手頃な標的”という点では何も変わらない。
 リーファは助けを求めるべく老人に顔を向けた。

「じ、爺様ぁ…」
「諦めなされ。こういうものは、どうにもならん」
「そういう事だ」

 老人に無下にされて肩を落としたリーファを眺め、満足げにアランは残った紅茶を一気飲みした。

 ◇◇◇

 老人とのティータイムが終わり、リーファがキッチンで食器を片付けて出てきた頃、ヘルムートが懐中時計を見てアランとリーファに呼びかけた。

「…さてアラン、リーファ。そろそろ戻ろうか?」
「そうだな」

 帰るつもりでいるふたりを交互に見て、リーファはつい気になっていた事を訊ねた。

「…そういえば、いいんですか?
 その…爺様を、捕らえるんでしょう?」

 アランとヘルムートは、不思議そうに顔を見合わせた。まるで今の今まで忘れてたと言わんばかりだ。
 老人もまた、ソファに寄りかかってまったりしている。

「ああ、別にいいんだよ。一件があったのは十年も前で、捕獲を命じた先王はもういないんだ」
「前に一度縄に繋いだ事があったが、いつの間にか煙のように消えて引きこもってしまったからな。
 ここに来られるのは爺の気の向いた時だけ。
 爺が望まぬ限り、捕らえる事は誰にもできんという事だ」
「はあ…そんなものなんですね」

 腑に落ちないが、ふたりがそう思っているならリーファにはどうしようもない。

 すでに別れの挨拶は済んでいるのだろう。アランとヘルムートは老人に背を向け、階段に向かって歩いて行ってしまう。
 リーファも挨拶をしようと老人に顔を向けると、彼は口元に人差し指を立て、リーファを招いていた。

(…?)

 リーファが側にしゃがみこむと、階段を上がって行くふたりには聞こえない位の声音で老人は囁いた。

「殿下方は結構じゃが、嬢ちゃんはまたおいで。
 その時は、菓子折りでも持ってきてくれると嬉しいのう」

 にこーと微笑まれてしまい、リーファもつられてにこーと微笑み返してしまった。

「…私、パウンドケーキ作るの自信があるんですよ。
 今度来る時は、それを持ってお邪魔します」
「楽しみにしとるよ………おお、ではこれを貸しておこうか。
 いつでも、好きな時に戻してくれて構わんからの」

 手を差し出されて握手をする。それと一緒に本を渡されて、リーファは怪訝な顔をして受け取った。