小説
故人は時に生誕を言祝ぐ
 3階の側女の部屋をノックもせずに開けると、丁度女がベッド側のキャビネットの引き出しを開けていた所だった。

 いきなり訪れたアランを見てびくりと身を竦ませ、女は慌てて引き出しを閉める。
 そしてアランの側まで駆け寄ってきて、優雅とは程遠いたどたどしい動きで首を垂れた。

「陛下、どうしたんですか?何か、辛そうですけど…」
「背中を殴られた。お前のせいだ」
「何で?!」

 理不尽だとでも思ったのだろうか。女は驚いた様子でアランを見上げてきた。

(名前は…ビーバーだったか、リーパーだったか…)

 名前を思い出すのも億劫なこの娘が、アランの側女だ。

 城のメイドと比べてもこの女は美しいとは言えず、背は低く、胸も小さい。
 全体的に見た目が幼く、アランの趣味を疑われかねない女だ。

 ただ、ラッフレナンドの国民にしては珍しい茜色の髪と、宝石のような瑪瑙色の双眸を持ち、全く見るべき所がないとも言えない。
 百歩譲れば、『物珍しさという点で側に置かれた』と周囲に思わせるには十分と言える。

 ふと、アランはこの側女の名前を思い出す。確か───

(リーファ………そんな名前だったか。
 まあ…女の趣味への疑念は、今に始まった話ではないがな…)

 王子だった頃から、多くの美女との見合いを破談にしてきたアランだ。
 この位の変わり種を側に置いた方が、正妃の座を狙う貴族達に対する牽制にはなるだろう。

「よ、よく分かりませんけど、背中、見ましょうか?
 湿布、薬剤所から貰ってきますけど…」

 リーファはおろおろしながらアランを部屋に招き、ソファに座らせた。

「お前は回復の魔術を使えるのだろう?さっさとそれで治せ」

 そう指示されるとは思わなかったのだろう。彼女は驚いた様子でアランに訊ねた。

「え。それ、私言いましたか?」
「メイドが言っていた。メイドの名は…サンドリーヌ、だったと思うが。
 …そんな事はどうでもいい。早くしろ」
「は、はい…」

 リーファはアランの前に回り込み、上着とワイシャツのボタンを外して服を脱がす。そして背中に回って、今も尚痛みの走る首や背中の様子を確認している。

「見る限り、赤くも青くもなってないですね………。
 でも、もしかしたら痣になるかも…」
「何度も言わせるな」
「…は、はい」

 リーファは再び回り込み、アランに向き直った。
 アランの顔に手を沿えて、口を開けながら唇を近づけてくる。

(…?)

 アランは眉根を寄せて、彼女の挙動を訝しむ。
 いきなり近寄られて気分が悪くなり、リーファの顔の接近を手で阻止した。

「…ちょっと待て」

 唇を押さえられ、くぐもった声でリーファが首を傾げている。

「ひゃい、みゃんですか?」
「何をしようとしている」
「え、だって。背中の痛いの、治すんですよね?」
「それとキスに何の関係がある」
「私の生気を陛下に吹き込んで、自己治癒を高める術を使おうと思って。
 こっちの方が効率いいんですよ」

 呪文を唱えてぱっと治す魔術を想像していただけに、アランは顔をしかめてしまった。
 ぐい、と手にかける力を強めると、押し負けたリーファがバランスを崩してソファから落ちそうになる。

「…効率の悪いほうでやれ」
「えー。何でですか。キスなんて毎晩してるじゃないですか」
「顔が気持ち悪い」
「酷い!!」

 アランの至極客観的な意見に、またリーファはショックを受けたようだ。
 価値など無いに等しいプライドでも傷つけられたのか、彼女は半泣きになりながら背中に回り込み、痛い箇所を手で探っている。

「診療所にいた頃も怪我人にこんな治癒を施していたのか。いかがわしい女だな」
「し、してる訳ないじゃないですか。
 この国、魔術嫌いな人多すぎるんですよ?下手に使ったら何を言われるか…」
「つまり魔術に長けた国ならしていた訳だな。なるほど」
「お互いの体液を媒介にして生気を送り込み、自己治癒を高める術なんです。
 …まあ私も、ちょっと使い勝手が悪いとは思ってましたけど…。
 とにかく、誰にも使った事はありません」
「…なら、何故今使おうとした。実験台にするつもりだったか」
「…あ…」

 アランの指摘に、リーファは言葉を失っていた。

 後ろにいるリーファを肩越しに覗き込むと、俯いたままアランの背中に手を置いていた。
 その周りにはぼんやりとした黒いものが現れたり消えたりしている。
 アランの”目”は、彼女の嘘を探っているようだ。

 やや時間を置いて、リーファを包む黒いものは霧散していく。どうやら彼女は正直に話すと決めたらしい。

「………あの…はい…その通りです………」
「最低だな」
「申し訳ありません…」

 目に見えて落ち込みながらも、リーファはアランの痛みの元を見つけたようだ。
 首の根っこ辺りに手を添えて、彼女は呪文を唱え始める。

「”我が手は過去への導き手。紡げ紡げ、運命の歯車。
 絹布は生糸に、生糸は繭に、繭は蚕に、蚕は卵へ。
 老者は大人に、大人は子供に、子供は赤子に、赤子は胎へ───”」

 未来を遮るような詠唱だった。時を逆光するような文句だった。

(熱い…)

 事象に逆らうような文言と共に、手を触れている箇所がじんわりと熱くなっていく。沸かしたばかりの熱湯程ではなく、浴場の湯よりも熱いその心地良さに、アランの痛みが塗りつぶされて行く。

「”望む姿を臨むまで、戻れ戻れ───”」

 やがて詠唱を終えてリーファが手を離すと、熱さも痛みも消えてなくなっていた。

「あの…どうでしょうか?」

 視界の端から、リーファの残念顔が覗き込んでくる。

 アランはソファから体を起こし、肩や背中をよじって具合を確かめた。
 先程まで苦しめていた背中の痛みはもうなく、体を動かしても何ともないようだ。

「…ああ、痛みは引いた」

 その姿を見上げ、リーファはほっと胸を撫で下ろした。

「あー、良かった。
 この魔術、人に使うの初めてで、ちゃんとうまく行くか不安だったんですよね」
「…なんだと?」

 聞き捨てならない言葉を聞き、アランはリーファを睨みつけた。

 視線に気付いて彼女はぎょっとしていた。身を竦め、恐る恐るアランに弁解する。

「え。…あの。言いましたよね?術を使った事はないって」
「それはさっきの術の方だろう」
「い、いえ。こっちの術もです。
 あ、まあ、自分自身に使った事はあるんですけど…。
 他の人にやるのとは、またさじ加減って違うじゃないですか。
 だからサンドリーヌさんにも、『知ってる』とだけ言ったはずなんですけど…?」

 アランもまた、メイドのサンドリーヌが言っていた事を思い出す。
 回復の術を『知っている』とだけ言っていた気がする。

 リーファが言う通り、このラッフレナンドには魔術を嫌う人間が多い。
 建国に繋がった聖女のくだりはもちろん、そこから派生した魔女狩りに続き、偏見に苦しんだ魔術師達が起こした惨劇と、魔術を忌むべきものとする要素は挙げたらきりが無い。

(知っていても、他人に使う機会はなかったか…)

 宝の持ち腐れと言えたが、この環境では仕方がないのかもしれない。

「………まあいい」
「何か、大分良くない言い回しですね」
「蒸し返して欲しいなら続けてやってもいいが」

 どうやらこの側女は一言多いようだ。
 リーファの物言いにアランが不満を露わにすると、彼女はすぐさま身を小さくした。