小説
藍色のジェラシー
「めでたし、めでたし」

 禁書庫の老人から借りている”セイレーンの声専用 子守唄の絵本”を閉じ、リーファは溜息をついた。この御伽噺の理不尽さといい、今起きている事といい、今日の彼女は納得が行かない事だらけだ。

 声を聞いた者を惹きつけるリーファの才”セイレーンの声”は、壁越しであってもちゃんと効果があったようだ。
 読み聞かせた者達を眠らせる力が籠ったこの絵本のおかげで、愛を語らっていた壁は聞き耳せずとも沈黙している。

 リーファは、ソファに待機していたヘルムートに手で合図を送った。
 リーファと耳栓を外したヘルムートは、側女の部屋へ入る。

 側女の部屋では、絨毯の上にアランが、ベッドの上ではヴェルナが、それぞれ寝息を立てていた。
 互いに目配せをして、リーファはヴェルナへ、ヘルムートはアランの側へと近づく。

(よいっしょおっ…!)

 力が抜けている者を動かすのは意外と骨が折れるものだ。
 思ったよりも重いヴェルナを、リーファは引きずるように動かしどうにかベッドの定位置に寝かし直す。
 出来れば化粧を落としドレスを脱がせてあげたいが、こればかりは諦めるしかない。

 ヘルムートもまた、ぐったりしているアランの脇の下に両腕を差し込み、ずるりずるりと部屋から引きずり出していた。

(手慣れてる…)

 実に手際よくアランが出て行く様に、リーファはつい感嘆の息が漏れた。
 しかしリーファものんびりはしていられない。
 ベッドを整え、バルコニーのガラス戸を閉め、一通り部屋をチェックしてから灯かりを消し、廊下に人の姿がないか確認してからリーファも部屋を出た。

 ───ぱしんっ!

 どこからか聞こえてきた音に首を傾げつつ隣の部屋へ戻ると、一瞬その光景にぎょっとした。
 ヘルムートが床に寝かせたアランの襟を掴み、頬を力いっぱい平手打ちしていたのだ。
 部屋の扉を閉め、ヘルムートに慌てて声をかけた。

「へ、ヘルムート様!一体何を…?!」
「こうでもしないと起きないだろう?」

 そう答えるヘルムートは無表情だ。
 いつものような愛想の良い面持ちでもなく、ヴェルナの言いなりになって怒っていた昼間のような感情もない。
 ただ淡々とつまらない仕事をするようにヘルムートは手を振り上げていた。

「そ、そうかもしれないですけど…!」

 止める事も出来ずにおろおろしていたら、アランがうっすらと目を開けた。

「う…?」

 まだぼんやりしているらしく、周囲を見回して状況を確認している。

「ここ、は…」
「リーファの部屋の隣だよ。まあ、今はリーファの部屋なんだけど」
「…?なんの、事だ?」
「はあ?覚えてないの?自分で言っておいてさ」

 つっけんどんな態度のヘルムートを見上げ、アランは怪訝な顔をした。
 挙動を見るに、ヴェルナがした”何か”からは解放されたように見える。
 ほんのり腫れた頬に手を当て、アランが呻いた。

「…頬が、痛い」
「叩いたからね」

 にっこり微笑んでそう答えるヘルムートに、アランの体が一瞬強張ったように見えた。
 ピリピリした場の雰囲気にハラハラしながら、リーファはアラン達に声をかけた。

「な…何にせよ、陛下が目を覚まして良かったですね…!
 ゆ、床に座ってるのも何ですから、ソファにどうぞ」
「ん、それもそうだね」

 相変わらず笑顔が怖いヘルムートだが、アランに肩を貸す気持ちはあるらしい。
 ふらついているアランを支え、ソファへ座らせている。

 リーファは水差しの水をコップに注ぎ、アランの前のテーブルに差し出す。
 更にタオルに水を含ませコップの隣に置いておくと、アランはコップの水を勢いよくあおって大きく息を漏らした。
 再び周囲を見回し、屋外が暗くなっている状況を見て目を細めた。

「今は…夜、か?私は謁見の間にいたはずだが…」
「…まさか、今の今まで意識が飛んでたんですか?」

 向かいのソファに座ったリーファの問いかけに、アランは目を閉じて首を横に振る。

「…いや、覚えてない訳ではない…。
 …お前の部屋には…行った気がするな。食事は………昼食を取った、か…?」
「そういうのを、意識が飛んでたって言う気がしますけど…」
「………………」

 濡れタオルを頬に当て、アランは深刻そうに黙り込んでしまった。
 項垂れているアランを見下ろし、ヘルムートが呆れ混じりに溜息を吐いた。

「何だか状況確認が要るみたいだね?」
「………頼む………」
「じゃあざっくりと。ヴェルナ嬢が謁見してから、皆の様子がおかしいんだ。
 惚けてるっていうか、上の空で、ヴェルナ嬢の言いなりになってる」
「何故か、私とヘルムート様だけ平気なんですけどね」

 リーファが補足すると、ヘルムートは小さく頷く。

「今の所物的被害は出てないけど、ヴェルナ嬢にリーファの部屋を明け渡す羽目にもなった。
 僕としては、これからもこの状況が続くのはあまりにも気持ちが悪い。
 だからリーファの”絵本”を使って君達を眠らせて、君とヴェルナ嬢を引き剥がしたって訳」
「………………」

 粗方の説明を受けて、アランは黙り込んだまま俯いている。
 今に至るまで正気を失っていたのだ。その間の出来事を理解するのに時間がかかっているのだろう。