小説
藍色のジェラシー
 翌日、アップルパイを収めた籠を持って、リーファは禁書庫の司書室へ来ていた。

 司書室は前来た時と大分様変わりしていた。
 縦に長い直方体の建物の壁に、夥しい量の本が並べられている。中央は吹き抜けになっていて、階下への行き来はその吹き抜けに渡された階段を使うらしい。
 最下層は、中央にはスクエアテーブルが一台とその四方にソファが一脚ずつ置かれていた。前回訪れた時もこの家具が置かれていたから、恐らく老人のお気に入りなのだろう。

「───という訳で、これがその人の唾液なんですけど…」

 最下層の広間にいた老人に事情を説明し、眠っていたヴェルナから採取した唾液入りの小瓶を渡した。

 老人は、才を調べられるという特殊な紙に、小瓶の中の唾液を撫で付ける。
 やがてじっくりと出てきた色は、薄いピンク色。オールドローズと呼ばれる色だった。
 老人が感嘆の息を漏らす。

「ほほう、珍しい色が出たのう。これは”リリスの瞳”じゃな」
「リリス…どこかで聞いた名前ですね」
「夜魔種という魔物の、代々の女王の名前じゃな。この才は、その初代の力が由来とされておる」

 夜魔というのは、数多いる魔物の中で主に夜活動する種類を指す。
 サキュバス、インキュバス、ヴァンパイア、ナイトメアなどが有名だろうか。

(…あの子も、確かサキュバスだったっけな…)

 グリムリーパーの務めを始めた頃に会った黒髪の魔物もこの種類か、と思い出す。その頂点にいるのが”女王リリス”と呼ばれているようだ。

 アップルパイを盛りつけた皿と紅茶入りのカップをテーブルに置いて、彼女はソファに腰を下ろした。

「どういう才なんですか?」
「うむ。この才を持つ者と目を合わせると、たちどころに魅了されてしまうという強力な才じゃ」

 ほう、とリーファから吐息が零れた。
 目を合わせた途端に魅了されてしまうなど、手間がかかる魅了魔術などよりもよっぽど厄介だ。
 おまけにヴェルナの目が離れても効果が続いているようだから、持続性もある。

 ふと、リーファの中で一つの疑問に行き当たる。
 ヘルムートやリーファもヴェルナとは顔を合わせているが、魅了の影響を受けていないのは何故だろうか。

「…でも私とヘルムート様は、ヴェルナさんを見ても何も感じませんでしたけど…?」
「そこがこの”リリスの瞳”の由来じゃの。
 初代リリスは恋焦がれた男がおったのじゃが、その男はリリスに興味を示さなかった。
 リリスは苦心の末あらゆる者を魅了する魔術を身につけ、多くの者を虜にしていった。
 じゃが…リリスの想い人には、その魔術が全く効かなかった。
 その原因は、今でも知らされておらん」
「…想い人だったから効果がなかった、という訳じゃないんですね…?」

 リーファの推測に、老人は静かに首を縦に振った。

「そんな訳での。理由は不明じゃが、この才は効く者と効かない者がおるんじゃ。
 じゃが、効かない者はごく少数じゃろう。
 城の中で二人もおるのは、ある意味奇跡やもしれん」

 何となくテーブルを見たら、老人の側に置いていた皿の上のパイが綺麗さっぱりなくなっている。
 リーファはその皿へ、もう一切れパイを置いた。

「その才を無力化する方法はあるんでしょうか?」
「ふむ…こんなものがある」

 そう言って、老人は座っているソファに置いていた一冊の本を見せてきた。

(今、話を持ち掛けたばっかりだったのに、何で持ってたのかな…?)

 調べ物をしていてたまたま控えていたのか、それとも来る事を知っていて用意したのかは分からない。
 後者なのではないかと、根拠もなくリーファは考えた。

 付箋のついているページを見ると、薬の調合方法が記されている。
 必要な素材は、聞いた事はあるが見た事はない材料ばかりだ。無論、市販されているものなど一つもない。

「才を一時的に封じ込める丸薬じゃ。
 自身の才はもちろん、相手から受ける才の影響も無効化する。
 調合に必要な物を手に入れるのがちと厄介じゃな。
 ドラゴンの角とか、最近はなかなか見つからんじゃろう」
「薬剤所ならあるかもしれませんけど…貴重な物ですからね。
 作らせて貰えるかどうか…」
「………あとは、嬢ちゃん次第じゃの」

 唐突に自分の事に触れられて、リーファは顔を上げる。
 小首を傾げたら、老人は朗らかな顔をして笑っていた。

「私…ですか?」
「左様。嬢ちゃんの”セイレーンの声”は、”リリスの瞳”と同じく他者に効果を及ぼす才じゃ。
 ”リリスの瞳”の力は、距離が近いほど効果が高くなる。
 アラン殿下の側にその者がおるのは、より効果を上げる為と見て間違いない。
 殿下により近づき語り続ける事で、殿下にかかる瞳の効果を打ち消せるやもしれん」

(”声”の力で、”瞳”の効果を打ち消す…か)

 言っている事の理解は出来た。

 リーファの”セイレーンの声”は中毒性が高いらしく、それは恐らく”リリスの瞳”にも同じ事が言えるのだろう。
 以前アランが『声を聞いていないと気が紛れない』と言っていたように、今はヴェルナの瞳に惹きつけられているのだ。

(絵本使って引っ叩くよりはまだ何とかなるかな…)

 老人の言葉を心に留めつつも、リーファは別の事を考えていた。

 土地によって差はあるらしいのだが、ラッフレナンドで”殿下”と言うと、基本王の子の事を指す。
 そして王の事は、”陛下”と呼ばれる。
 しかしこの老人は王であるアランを、”陛下”ではなく”殿下”と呼んでいるのだ。
 アランの幼少期から顔を合わせていたというし、アラン本人も気にしていないようなのだが。

(爺様の中では、他に”陛下”と仰ぐ方がいるって事なのかしら…?
 その方にはまだ及ばない、と…?)

 聞いてみたい気持ちはあるが、恐らくこれはふたりの問題なのだろう。リーファが口を挟める話ではないはずだ。

 ふと気がつくと、老人の側のカップから紅茶がきれいさっぱりなくなっていた。テーブルに触れた所を一度も見ていないのに、跡形もなく。

 紅茶を淹れ直そうかと考えもしたが、もしかしたらもう、ティーポットの中身もからっぽになっているんじゃないかと思って、リーファは見て見ぬ振りをする事にした。