小説
小さな災厄の来訪
 執務室の机に置かれていた重要書類の殆どが床に散らばり、その内の少数派はガラス戸の先へと吹き飛ばされていた。ちゃんと戸は閉めておいたはずだが、どうやら先のトラブルで錠が外れてしまったらしい。

(高価なガラス戸を買い換えなくていいか………錠の修理だけで済むなら…)

 半ば自棄になりそうな気持ちで、戸の先の優美な景色を堪能してしまいそうになったが。

「答えなさい。陛下とリーファ様をどうしたのです」

 同じように呆然としていたと思ったが、シェリーの方が切り替えは早かった。
 見れば、何故か得意げな顔でマントの襟首を掴まれたリャナと、少女を掴み剣の切っ先を喉元に突きつけたシェリーが視界に入る。シェリーの表情はいつもと変わらず凛としているが、どこか焦りも見える。

「怒らないで、お姉さん。
 あの王様がリーファさんと一緒にいたいって言うから、一緒に送ってあげただけだよ。
 ───ラダマス様のいる、グリムリーパーのお城にね」
「あ…アランを戻してくれ!今すぐに」

 ヘルムートも詰め寄るが、リャナのなめきった態度は直らない。

「ムリだよぉ。あたしの翼じゃ、ラダマス様のお城へは何日もかかるし。
 リーファさんにつけた腕輪ね、”橋渡しの腕輪”っていう目的地まで飛んで行く魔術の道具なの。
 ここの南にある森まで戻ってこれる宝石もちゃんとついてるから。
 多分リーファさんならあの腕輪使った事があるだろうし、用事が済めばすぐ帰ってこれるってば」
「リーファ様はまだしも、陛下も無事に戻ってこられる保障はあります?
 魔物の王の城など…!」
「グリムリーパーは、魔物じゃないよ」

 緊急性のない反論をするリャナに、シェリーとヘルムートは怪訝な顔をした。

「いや、だって…」
「グリムリーパーは、死んで魂になった人たちを回収する仕事があるの。
 そこに、魔物も人間もないの」
「それは…まあ、聞いた事はあるけど」
「あたしのパパさ、一応魔王だから魔物を操る力も持ってるんだよね。
 でも、グリムリーパーにはそれが効かないんだってさ。
 だからリーファさんは魔物じゃないの。人間でもないってだけ」

 どうやら魔物達の界隈では、ある一定の法則に従って細かく分類されているようだ。

(そういえばリーファも、『人間ではない』って言ってたけど『魔物だ』とは言わなかったかな…)

 ヘルムートにとってはどうでも良い話だが、リーファやリャナにとってはとても重要な事なのだろう。

「…では、何故魔物と組んでいるのです?」
「組んでる…ってわけじゃないんだけどなー。
 あたし達とは…うーんと、お友達、みたいな感じ?
 人間ともそういう風にできたらいいんだけどさ、でも人間は見た目で判断するじゃない。
 同じ人間でも、髪の色が違う、目の色が違う、考え方が違うだけで、やれ悪魔だやれ魔女だって」

 リャナはにやっと笑うと、その姿がどす黒く変色し、あっという間にサキュバスの姿に成り果てる。変じた拍子にシェリーの手が目標を見失い、空を軽く切った。
 少女にとって逃げやすい姿になったようだが、当人に逃げるつもりはないようだ。

「グリムリーパーにとって、人間の町は住みにくいんだから。
 純血種は長生きだし殆ど歳取らないから、色々勘ぐる人多いらしいし。
 リーファさんはハーフだけども………結構苦労したんじゃないかなぁ」

 ヘルムートは、リーファがここに住み始めてから今までの事を思い出す。

 必要がなければグリムリーパーの姿を取る事は滅多になかったし、自身の声が人よりも響きやすい事を知って以降、魔物絡みの会話は言葉を濁す発言ばかりしていた。
 時に感じる過度な対応は、彼女が抱えた問題が今に始まった話ではないという事なのだろう。

「…確かにね」
「話が逸れてますわヘルムート様。
 陛下が、恐らく、多分、お戻りになるだろう、という事は分かりました。
 ───問題は、いつ帰ってくるかです」

『話を逸らしたのは君だろう』と言いたかったが、それよりも重大な案件にヘルムートの顔が青くなった。手で顔を覆い呻く。

「うわあ…そうだった………明日、晩餐会の予定があるんだった…!」
「朝は責任者会議が、昼は引見の予定が三件ございますし、件の晩餐会は陛下のお見合いパーティーも兼ねています。なんとしてでも今日中に戻ってもらわねば大事です」
「なんとか連れ戻す事は出来ないの?ええっと…リャナ?」
「何とかなさい、その首刎ねますわよ?」
「え?う、うーん?」

 ヘルムートに詰め寄られ、シェリーには剣の切っ先を突きつけられ、リャナは交互を見ながら首を傾げる。
 そして「あ」と声を上げて、首にかけていたネックレスに絡まった指輪を一つ見せてきた。ハート形のチャームがついた銀色の指輪だ。

「連れ戻す事はできないけど、これを使えば替え玉は作れるよ?」
「…替え玉?」
「ちょっとしつれいー」

 リャナはふたりの横を抜けると、 アランの執務机をぐるぐる見て回る。

「あ、あったあった」

 そう言って椅子に落ちていた金色の髪を一本拾い上げる。恐らく、アランのものだろう。
 リャナはネックレスから指輪を外し、チャームを開けてその金髪をまるめて入れる。
 リャナが親指に指輪をはめた途端。

 ───しゅわん

「うおわ!?」

 小柄な黒髪の魔物が、大柄な金髪の成人男性の姿に変化する。
 素っ頓狂な悲鳴を上げたヘルムートに、アランの姿をしたリャナは胸を張って訊ねてきた。

「どう?どう?変化の指輪。これつけとけば、戻ってくるまで時間は稼げるよ」
「あ、ああ。声もアランの声のままだね…」
「確かに。…確かにこれは使えそうですけど…」
「アランの見た目と低い声でくねくねポーズ取られると、かなり怖いな…」

 腰を振って髪をかき上げてくるりと回って動作を楽しんでいたリャナは、ふたりの指摘を受けて首を捻った。

「ふむふむ。なんかこう、貴族的なカンジにすればいいのね。ええっと…」

 リャナはシェリーに近づき、剣を持つその細く白い手に左手を、きめの整った顎に右手を添えて、優しく声をかけた。

「美しいお嬢さん、どうか剣を収めてはくれまいか。
 月のない夜に燦然と輝く北の白き星のような貴女の美しさに、こんな無粋な物は似合わない。
 その艶を帯びた甘い声で、私の名を呼んではくれまいか。
 ───みたいな?」

 執務室に沈黙が下りた。
 側で見ていたヘルムートはもちろん、口説かれているシェリーですら戸惑いを隠しきれずにリャナを見上げて黙してしまっている。

 しばらく静寂が部屋を支配していると、開けっ放しのガラス戸の先が賑やかになってきた。そこそこの数の書類が外へと飛んでいったので、兵士達が気にし始めたのだろう。

 反応があんまりだったからか、リャナは怪訝な顔をしてふたりを覗きこんできた。

「…ん?あれ?ダメ?」
「………………」

 シェリーは一歩引いて剣を収めた。溜息を吐き、行儀悪くリャナを親指で指してヘルムートに聞いてきた。

「───もう、なんかコレに国を任せてしまっていいのではと思うのですが」
「それ言わないであげて。
 素直じゃないけど、悪い子じゃないんだよ…アランはさ」
「ああ…何故うちの陛下は、魔物の子供以下なのか…!」

 顔を押さえてまた溜息を吐くシェリーを見下ろし、

(言いたい事は分かるんだけどね…)

 と心の中でヘルムートは付け足した。