小説
届かない想い、届けない想い
 ───あの頃から、居場所のなさはつくづく感じていた。

 人が纏う、黒い霧のような”ソレ”。
 ”ソレ”が何か怖いもののような気がして、正体を知る前は人とは出来るだけ距離を取るようにしていた。
 正体が知れてからは、自然と人の方が距離を取るようになっていた。

 孤独は常に付きまとっていたから、一生人と通じ合う事はないのだと思っていた。
 でも。

 色白で、銀糸の長い髪と赤い瞳を持つ女の人。
 いつも部屋に閉じこもり、本を読んでいるかベッドから庭を眺めていた人。
 とある部屋をヘルムートと一緒に扉の縁からそっと見た時、その人からは何故か”ソレ”が見られなかったのだ。

 それからというもの、その人の事が無性に気になってしまい、色んな所で調べた。
 そうしたら大事になるのではと思ったのか、乳母が『その人はあなたを生んでくれた人なのですよ』と教えてくれた。要は母親なのだと。

 ”母上”と呼ぶ人は他にいたものだから、かなり混乱した。
 混乱はしたが勉強をして、この国はそういう制度で王の子を増やしているという事を知った。

 そして、母親とはどういうものかも調べたのだ。
 自分を生んだ存在、慈愛に満ちた者、子供を守り育てようとする者。

 子供を守り育てようとする者なら、孤独に苛まれている自分を守ってくれるのだろうか。救ってくれるのだろうか。そんな希望が湧いた。湧いてしまったのだ。

 だから、こっそり眺めるだけの毎日を止めた。
 勢いよくその扉を開け放ち、ベッドでぼうっとしていたその人に抱き着いたのだ。
 なのに───

 ◇◇◇

「う………うう………、ぐ………、………ぅ………、はぁ………あ、あ………」

 魘されるようになってから少し経つ。大量に汗をかき、言葉にならないうわ言が聞こえる。

 苦しそうに動く成人男子の寝汗を拭う事は難しい。
 リーファはパジャマの胸元を少し開け、額と首回りの汗を濡れたタオルでふき取る。

 ───がちゃん!

「アラン、大丈夫?!」

 自身の”耳”が異変に気付いたのだろう。ヘルムートが血相変えて部屋に入ってきた。

「先程から魘されるようになって………一時的なものだと思うんですけど」

 アランの右手は何かを求めてあがいているが、宙をかくばかりだ。

「お………かあ、さん………………なん、で………っ」

 荒い呼吸から辛うじて聞き取れたうわ言を、リーファはオウム返しした。

「おかあさん…?」
「ああ………あの時の事を、思い出してるのか…」

 ヘルムートは何か事情を知っているようだ。しかし、そう呟いた彼の表情には影があり、あまり話したくない内容だと察せられた。

(…そういえば、このお城の中で”母親”を感じさせるものってあんまりないのよね…)

 アラン達の”母親”と呼べる人物はおろか、乳母すらもいない。
 リーファは側女ではあるが、まだ”母親”にはなれていない。メイド達は言わずもがなだ。
 意図的か偶発的かは分からないが、こうした”母親”の影がない環境が、アランのこの悪夢に影響を与えているのでは、とつい考えてしまう。

「………それは多分、私が聞いたらダメな話ですよね?」

 リーファの問いかけは、ヘルムートを大分困らせたようだ。時間をかけて、ようやく口を開く。

「う、ん。どうかな………僕には、判断がつかない。
 アランなら絶対話したがらないだろうし、この話を知っている者は多くないから。
 君が今後、うっかりアランにその話題を振って怒らせないとも限らないから、聞きたいのなら言うけど…」

 勿体ぶった言い回しをするヘルムートを眺め、リーファは少し考えた。

(怒らせたくはない…けど)

 魘されているアランを一瞥し───リーファは軽く頷いた。ヘルムートに向き直る。

「うん。じゃあ、聞くのは止めます」

 どうやら聞いてくると思っていたらしい。肩透かしを喰らったヘルムートは、拍子抜けした様子でリーファに聞き返す。

「…え、いいの?」
「ええ。だって、人に知られたくない事の十や二十、あるものじゃないですか。
 いつもは忘れていても気が弱ってる時に思い出す事って、掘り下げるべきものじゃないと思うんです。
 だから、ちょっとは気にはなりますけど、聞かない事にします」

 わずかな間、目を離しただけだったが、アランのうわ言は少しだけ変化していた。手は、何かを探るようにゆるゆると空を掻いている。

「いか………ないで…………」

 その言葉は、少し前にも聞いた事があった。魔王から貰った剣に呪いが取りついていて、アランが巻き込まれた時の言葉だ。
 リーファがその手を取り両手で包んでみると、熱い体温を逃がすかのように強く握り返してくる。

「…ねえ、リーファ」
「はい」

 手を握ったまま肩越しに振り返ると、ヘルムートは表情の失せた面立ちで事務的に続けた。

「君は側女だ。王の御子を産む為だけにいる。
 だから、ずっとここにいられる訳じゃない。それは理解している?」
「はい」

 間を置かずあっさりとリーファが答えた事で、ヘルムートは少し動揺したようだ。瞬きを一つして、目を見開いている。

 リーファは自分が今どういう顔をしているか分からないが、至って冷静なのではないかと思っている。世間話をしているような、他人事を話しているような、そんな気分だ。

 手を握ったのが良かったのか。魘されてはいるが、うわ言は言わなくなったアランを見下ろす。

「…いつかアラン様が素敵な正妃様をお迎えして、御子様が生まれて、次のお世継ぎがちゃんと決まって…。
 そこまでいられるのかは分からないですけど、いつかはここを離れませんと」

 振り返る事のないリーファを見下ろし、ヘルムートは淡々と謝辞を口にした。

「…君がアランに思慕の情を向けていない事は、ありがたいと思う。
 アランはこういう子だから、拠り所は多いに越した事はないんだけど。
 でも、依存は駄目だ。
 リーファがいないとどうにもならない状態になっては、困る」

(依存だなんて…)

 ヘルムートの言葉を聞いて、彼に悟られないようリーファは薄く笑う。

 アランのリーファに対する扱いは、以前からあまり変わっていない。
 見た目の欠点はあげつらうし、他の女性を引き合いにする事もある。
 抱いてもらえるようにはなったが、グリムリーパーの体を求められるようになってからは人間の体に触れる頻度が減っていた。具合の良い玩具が増えたのだ。良い所のない玩具が使われなくなるのは当然だ。

 いつかは飽きられる。新しいものに目が行く瞬間が訪れる───とは思えても、依存されるなどとは微塵も思えないのだ。

(そう、いつかは飽きる。…そうじゃなくちゃ、ダメなんですよ)

 言い聞かせるようにアランを見据え、リーファは、自身のグリムリーパーの力を使う。
 ベッドに臥しているアランをかき消すように、視界に別の光景が広がっていく。

 ───ラッフレナンド城の一室。ベッドに、一人の男が臥せっている。
 男は年老いてはいないが、明るい色の長髪にコシはなく、頬がこけ随分衰弱していた。
 ベッドの側には女が一人、顔を手で覆って泣きじゃくっている。
 女の隣には少女と思われる小さな子供が一人、ベッドの男をじっと見つめていた。
 その後ろには、メイドと思われる女性が何かを抱えている姿が───

(………………)

 いつまでも見ていられず、リーファはたまらず目を閉じた。
 恐る恐る目を開けば、そこには今尚苦しんでいるアランがいるだけだ。

(…やっぱり、死に際が変わってる…)

 視界に入った人物の死を視るグリムリーパーの力の一つ”死に際の幻視”は、アランの死期が変化した事を伝えていた。

(前は、もっと年老いてからだったのに………一体、なんで…?)

 以前よりもずっと早くに逝ってしまうアランの未来に、リーファはぞっとした。
 自分が原因を作ってしまったような気がして、アランの手を握る両手が震える。

 リーファの”死に際の幻視”の性能は、良いとは言えない。
 色彩はないし、視た死に際が外れてしまう事もままある。
『死を恐れるあまり、幾つかある死の可能性の内、最も近い死に際を視てしまうからだよ』と父エセルバートは言っていた。
 この未来が来ない可能性は、あり得るが。

(側で泣いていた女性は、多分………私)

 この未来にたどり着いてしまう可能性だけは、避けなければならない。絶対に。

「…分かっています。
 私は、ここから出なければいけません………必ず」

 リーファはアランの手を強く握り返し、ゆっくりと祈るように目を閉じた。