小説
ミニステリアリス奇譚
「リーファ様の様子がおかしいのです」

 シェリーが執務室にいたアランにそう告げたのは、ほんの数分前の事だ。

 日の出から少しが経過し、にわかに城内が賑わい始めた時間帯。アランは嫌々ながらも、シェリーと共に3階の側女の部屋へと向かっている。

 この時間は執務室にいる事はあまりないのだが、午後には引見があるので資料をまとめていたのだろうと想像が出来た。
 しかし、それをせずにリーファの所へ行く選択肢を選んだのは、恐らく側女の女性を心配しての事ではない。
 宿題が積みあがった机の片付けより、いつもは気にかけもしない植物の水やりをしたくなる───そんな気持ちなのだろう。

 ラッフレナンド城3階。扉が開け放たれた側女の部屋へ入ると、目的の女性は寝巻のままベッドの上で医師の診察を受けていた。

「エリクソン医師、容体は?」

 呼ばれた医師、オロフ=エリクソンは立ち上がり、アランの方に体を向けて恭しく頭を下げた。

 彼は、白髪交じりの茶髪を刈り込み眼鏡をかけた初老の男性だ。
 格好は、白のワイシャツに藍色のネクタイを締め、ボトムは暗緑色のスラックス。加えて真っ白な白衣を羽織っている。白衣さえ着ていれば医師の格好に規定はないので、可もなく不可もなく、という所か。

 城に常勤の医師は複数名いて、彼もその医師の内の一人だ。
 勤務態度は真面目で、周りの医師との付き合いも悪くないという。まさに可もなく不可もない医師だが、会話の端々から感じ取れる鼻をつまんだような間延びした声が妙に印象的な男だ。

 彼は中指で眼鏡の縁を、くい、と押し上げた。

「えー。側女殿ですが、どうやら記憶喪失の状態にあるようですねえ。
 側女殿ご自身のお名前や出身地などの諸情報、そして親近者に関する記憶の一切が抜け落ちているようですねえ」

 アランの横からリーファを見下ろすと、憔悴しきった様子で俯いて大人しくしていた。膝の上に置かれた両手は小さく震えている。不安なのだろうか。

「大丈夫なのか」
「えー。幸い言語異常はなく、物事の一般的な名称の認識、文字の読み書きも可能でございましたねえ。
 一通り診察をしてみましたが…どうやら、後頭部にたんこぶが出来ている様子。
 ふーむ?一体、どちらでぶつけられたのでしょうかねえ」
「…さあな。そそっかしい女だから、クローゼットの角辺りでぶつけたのだろう。人騒がせな」

 横柄な態度のアランの背中をシェリーは半眼で睨んだ。自身に突き刺さる視線をアランも分かっているだろうが、気にした様子はない。
 無駄な攻撃は諦めて、シェリーはエリクソンに問う。

「お薬等は処方されるのでしょうか?」
「えー…それが。記憶喪失については良い薬、というものはないのです。
 そして、いつ記憶が戻るという保証もありません」
「そんな…」

 口元を押さえ言葉を失うシェリーに対し、エリクソンは続けた。

「しかし症状が一時的で、すぐに記憶を取り戻す事も多いのです。
 えー…しばらくは安静にして頂き、経過観察となるでしょうかねえ。
 まずは、後頭部の腫れを引かせるところから治療できれば、と」
「そうですか…よろしくお願いいたします」
「えーでは、氷嚢をお持ちしますので、一度失礼いたします」

 エリクソンはアランに深々と頭を下げ、側女の部屋を後にした。

 医師を見送り、シェリーは扉を閉めた。くるりと振り返り、部屋を眺めていたアランに声をかける。

「陛下」
「私は悪くないぞ」
「あら、理解はされているのですね?昨日のあれが、原因だったのではないか、と」
「………………」

 アランは不機嫌に口を噤み、鼻を鳴らす。

 ◇◇◇

 ───リーファは、”セイレーンの声”という才を持っている。

 声であらゆる者の興味を自分に引き付けるその力が、何かに役立たないかとアランが思案した結果、『パーティーなどで歌を披露させてみよう』という話になったのだ。
 しかしとても残念な事に、リーファの音痴はとても人前で出せるような代物ではなかった為、シェリーがついて矯正を試みていた。

 だが、練習中の声が気に障ったのか、腹を立てたアランが楽士の練習所に来て、持っていたガラス製のペーパーウェイトを投げつけてきたのだ。

 恐らく、リーファを的確に狙ったものではなかったはずだ。側を掠めて驚かせる、その程度だったと思いたいが。
 運悪く、ペーパーウェイトは弧を描いてリーファの後頭部に直撃してしまい、一時失神する騒ぎになってしまった。

 幸いそれほど時間はかからず、とりあえず目を覚ましたリーファだったのだが───

 ◇◇◇

「せっかく練習していたのに陛下があんな事をなさるから、すっかりリーファ様が怯えてしまわれて。
 結局改善には至らなかったのですよね…」

 シェリーは昨日の出来事を思い出し、はあ、と溜息を零した。

「しかし、昨日はあの後平気な顔で過ごしていただろう。関係ないのではないか?」

 この期に及んで、アランは原因が自分でないと思いたいらしい。何とも往生際の悪い王である。

「後から記憶障害を起こすという事もあるのでしょう。
 現にエリクソン医師は、たんこぶの事を言及されていたではないですか」
「………………あんなものを避けられぬリーファが悪い」
「…はあ」

 また一つ、シェリーは溜息を吐く。

 リーファに対する横暴は今に始まった話ではないものの、今回のこれはやり過ぎだ。しかし当のリーファは記憶喪失中なので、ここで謝ってもあまり意味はないような気がする。

「まあいい。記憶があろうがなかろうが、対応に変わりはない。
 忘れたならもう一度覚えさせればいいのだから」

 アランはリーファの側へと近づいた。リーファの瑪瑙色の瞳は怯えを宿し、アランを見つめ返す。

 表情を潰したまま、アランはリーファに問いかけた。

「お前は私の事も忘れたのか」
「………………」

 無言のままリーファは俯き、首を横に振った。

 消沈しきっているリーファを見下ろし、アランは短く息を吐く。

「…は。嘆かわしい。
 お前の身がどういったものか、毎晩嫌という程分からせてやっているというのに。
 ───いや、だが、そうだな…」

 何を思いついたのか、アランは顎に手を当てて考え込んでいる。しばらく黙り込んで、不意に嫌な笑みを零した。

 アランはリーファの目の前に片膝をつき、目線を合わせてとんでもない事を吹き込んだ。

「お前はリーファ=プラウズ。罪人だ」
「ざいにん…?」
「ああ、国に仇をなした極悪人だ」
「ちょ───陛下?!」

 シェリーは非難の声を上げて、アランの側に近づいた。

「何を馬鹿な事を言っているのですか!?」
「事実だろう?
 少し前、リーファは監獄に放り込まれ、尋問の末に脱走騒ぎまで起こしたではないか」

 何が面白いのか口の端を吊り上げ、アランが嗤っている。
 シェリーの表情がより険しくなった。

「馬鹿も休み休み仰って下さい!只でさえ混乱なさっている時に…!
 …リーファ様。これはただの戯言ですから、無視して下さいね?」
「え、ええっと…」

 シェリーが慌ててリーファに弁解するが、リーファ自身は判断がつかないようだ。アランとシェリー、双方の顔を見てまごまごしている。

 困り果てているリーファを見て多少はすっきりしたのか、アランは立ち上がって追い打ちをかけた。

「私を信じるかそのメイド長の言を信じるか、好きにするがいい。
 だが私からはこれだけは言っておこう。
 ───お前の処刑は明日だ。せいぜい己の成した事を悔やむといい」
「な?!〜〜〜〜〜〜っ!」

 シェリーが言葉にならない唸り声をあげる中、アランは踵を返し、側女の部屋を出て行ってしまった。

「全く…あの人でなしが…!」

 ふたりきりになった側女の部屋で、シェリーは声を低くして歯ぎしりをした。
 記憶がない事をいい事に、リーファを困らせようとしているのは明白だった。只でさえ不安で胸がいっぱいだろうに、この仕打ちはさすがにない。

 眉間にしわを寄せてアランが出ていった扉を睨んでいたら、不安そうにこちらを見上げるリーファに気が付いた。
 シェリーは慌ててリーファの側で跪き、リーファの頬を撫で笑ってみせた。

「あの方の仰る事は全部嘘ですので、どうぞお気になさらないで下さい。
 記憶がないのはさぞや不安でしょうが、必ず、必ず良くなりますからね?
 さあ、まずはお着替えをしましょうか。
 お食事は後程お持ちしますので、今日はどうぞここでゆっくりお過ごし下さい。
 ───ああ、そういえば手洗い場の場所を覚えて頂かないとですね。
 見取り図をお持ちしますので、せめて場所は覚えて下さると助かります。
 それから、ええとそれから───」

 安心させようとしたり、着替えさせようとしたり、説明をしようとしたりと忙しないシェリーを眺め、リーファは戸惑いながら静かに頷いた。