小説
ミニステリアリス奇譚
 ニークは手綱を上手に操って、荷馬車を前進させていく。最初はゆっくりと動き出した馬だったが、徐々にその速さを上げていく。

(っとと…)

 慣れない動きにぐらつき、リーファは椅子にしがみついた。初めての感覚に狼狽えている内に、荷馬車は中通りを左へ曲がり、大通りへと入っていく。

 振り返ると、荷馬車の荷物の向こうに城が見えた。
 湖に囲まれた、きれいな青い屋根の建物。さっきまでいた、白亜の城。

『私は、ここから出なければいけません………必ず』

 不意に脳裏を過った言葉に、リーファは一瞬何かを思い出したような気がした。

(………?)

 しかしその何かが分からず、幾ら考えても何も思いつかない。
 でも。

(出なくちゃダメなんだ…きっと)

 そう思う事にした。これが正しいのだと思いたい。

 荷馬車が大通りを進んでいく。城下の入り口から城まで続いている道だけあって、とても賑やかだ。
 どこかで歌が聞こえてきた。楽器の音に合わせて、たくさんの声が曲に彩りを添えている。

 声の聞こえる東の方角を眺めていたら、ニークがリーファに教えてくれた。

「ふむ、学校があるんだねえ」
「学校?」
「ああ、勉強を教えてくれる場所だよ。この城下は人が多いから、きっと子供も多いんだろう」

 へえ、と相槌を打って、リーファは再び歌の聞こえてきた方角を見やる。

「ああいう歌も、教えてくれるんですね…」
「そりゃあもちろん。
 歌は人生の肥やしだよ。歌で各地の伝承や歴史を伝える、吟遊詩人なんて連中もいる。
 どこの国にこんな英雄がいて、こういう偉業を成したんだよ、ってのを歌にして話してくれるのさ。
 …かくいうわたしも、詩人に憧れたもんだがねぇ。
 歌には自信はあるんだが、如何せん楽器の才能がなくて。
 結局諦めちゃったっけなあ」

 苦笑いを浮かべるニークの方に向き直り、リーファは食い入るように訊ねた。

「ニークさんは、どんな歌を知ってるんですか?」
「あーそうだなあ…この国で定番だと、さっきの”救国の聖女”の歌だね。
 恋歌だと”エバーグリーンオークガーデン”が有名かな。”橙の蜂起”って革命歌とかもあるねえ。
 ”救国の聖女”の歌だと…そうだねぇ」

 ごほんと一つ咳払いをしたニークは、すっ、と息を吸い吐息と共に歌いだした。

「”ああ、誰か教えて───”」

 男性特有の低く良く通る声に、周りを歩く人達が一斉に振り返る。
 賑わいが静まって行き、荷馬車を引く男の歌を聞き入っている。

 ニークはそんな大衆の視線を物ともせずに、高らかに歌い上げる。

「”風の鎧を身にまとい、真っ赤な髪を靡かせた、あの尊き人の名を───”」

 リーファもまた、その歌声の美しさに体が震えた。
 心の奥にまで響き渡るような歌声だ。こんな良い声なのに吟遊詩人の道を諦めるなんて、勿体ないとすら思えた。

 そうして曲をひとしきり歌い終えた頃には、馬車は街道へ抜ける外壁まで差し掛かっていた。

 声が届いていたようで、外壁を守っていた番兵達が拍手を送っている。

「あんた、いい声してんねえ」
「いやあ、どうもどうも」

 ニークが照れ恥ずかしそうに番兵らに手を振って、馬車はそのまま街道へと進んでいく。

 リーファもまた顔を綻ばせ、ニークに拍手を送った。

「すてき…!」
「ははっ、ありがとう」
「私もこんな風に歌えますかね?」
「ああ、きっと歌えるよ。
 わたしの声部はテノールだが、もっと高い、女性の声部もあるはずだよ。
 リーファさんなら、ソプラノでも行けるんじゃないかな。歌ってごらんよ」

 ちょっと戸惑って、リーファは周囲を見回した。

 もう城下を抜けているから、街道を通る人がちらほらいる程度だ。ニークの時のように人の目線が集中したらどうしようかと思ったが、その心配はなさそうだ。

 大きく息を吸って顎を上げ、リーファも声を上げた。

「ああ───」
「もうちょっと声高めに」

 即座にニークから指摘が入る。気を取り直してもう一度息を吸う。今度はもっと声を高く。

「あー」
「もっともっと」
「”ああ───”」
「そうそう、その音ね。それから次は…」

 日がゆっくりと落ちていく中、のどかな街道を彩った歌のレッスンは、次の村へ到着する少し前まで続いたのだった。