小説
ミニステリアリス奇譚
 ようやく気持ちが落ち着いて来たのか、アランは徐に体を起こし、腕や首を回していた。
 一通り体をほぐし、アランはヘルムートとシェリーに顔を向ける。

「あれがいなかろうと何がある訳ではない。
 ここ数日声を聞かなかったからか、いなくても良いと思うようになっていた所だ。
 ヴェルナの”瞳”と同じなのだろう。時間が経てば気にならなくなる。
 ───明朝町を出て、城へ戻る。ふたりとも、準備してくれ」

(…拗ねてるなあ)

 その態度からは、半ばやけくそな感じがにじみ出ていた。しかし打つ手がない以上、そうやっていじける事しか出来ないのも事実だった。

「了解」
「かしこまりました」
「………ふん」

 こちらが呆れているのは分かっているようだ。
 面白くなさそうに一瞥して鼻を鳴らしたアランは、気を取り直してテーブルの上に置いてあったパンフレットを手に取った。

「ふふん、せっかくだから最高級のホテルとやらを満喫してやるさ。
 頼めばマッサージもしてくれるのだろう?
 このホテル自慢のデザートも、全て平らげてくれる」
「…視察の日にも一通りのサービスは受けてもらうつもりなんだから、あんまり羽目外さないでよ?」
「分かってるさ。まずは露天風呂とやらに行ってみるか。それと───」

 サービスの一覧表を確認し始めたアランを横目で見て、ヘルムートは彼に気づかれないようにこっそり溜息を零した。

 ◇◇◇

「それじゃあ明日起こしに来るから、今日はちゃんと寝るんだよ。おやすみ」

 ヘルムートと別れ、アランは一人用の寝室で独り立ち尽くす。

 しばらく部屋の中をうろうろしたのだが、何をするにも落ち着かず、結局眠る事にした。
 ホテル備え付けのバスローブを着たまま、厚手のブランケットすらかけず、ベッドに寝そべり天蓋を見上げる。

 窓の先に見える木々は風に揺れているが、音はあまり聞こえない。
 静かな、心休まる時間だ。あっという間に寝る事が出来るだろう。

 目を閉じて、ホテルでのひと時を思い出す。

 ───”黄金の杯亭”は、良いホテルだ。

 まず露天風呂を楽しんだ。夕焼けを眺めながら湯に浸かり、森をイメージしたらしい植樹された庭を眺めると心が安らいだ。

 夕食は、メインであるサーモンのポワレやフィレ肉のグリルに舌鼓を打った。宣言通り、デザートは全て制覇してみせた。

 マッサージというものも試してみた。裸にされ、寝台に寝かされて二人がかりで全身を揉みしだくのだ。体が温まる一方、場所によっては痛みを伴う事もあり、丸一時間喘ぎと悲鳴を上げる羽目になってしまった。

 でも───足りない。

(ああ)

 あの声が、聞こえない。
 喋り声が、笑い声が、困り声が、そして腕の中で上がる嬌声が。
 あれと一緒にこのホテルに来たら、どんな反応をするだろうか。

『体がぽかぽかですねえ。ここのお湯はお肌がツルツルになる効果があるそうですよ』
『そんなにデザートばかり食べると胃もたれしますよ。今日はここまでにしましょう。ね?』
『ぎゃー?!待って、待って!そこ!そこは駄目なんです痛いんですいやー?!』

 色々と想像していたら何だかおかしくて、クスクスと独り笑ってしまう。
 しかし、そうして笑っているのにも次第に飽きてきて、飽きを自覚した途端、気持ちが一気に沈んでいった。

(ああ───声が、聞きたい)

 リーファには決して言えない、素直な想いだと思った。
 声を聞けば、それだけで気持ちが幾らか楽になるはずだと。
 しかし、心のどこかでそれを否定した。

(違う。───私は、あいつらとは、違う)

 あの宿屋の男のように、吟遊詩人のように。
 リーファの”声”の魔性に踊らされている訳ではないのだと、言い切りたい。

 アランが求めているのは、リーファの”声”などではないのだ。

「リーファ───お前に、会いたい」

 リーファに言えない気持ちが、今度こそ口から零れて行った。

 リーファが見たい。困った顔も笑った顔も見たい。
 自分の周りをちょろちょろと動き回る所が見たい。
 膝に侍らせて、時折ちょっかいをかけたい。
 菓子を山と作らせて、夜は絵本を読ませて。
 思いつく限りの奉仕をさせて、ベッドの上で思うさま善がらせたい。

 今まで共にしてきた事を全て。そして、これからしていく事を全て。
 リーファと共に、為して行きたい。

(きっと…きっといつかは、戻ってくるはずだ)

 記憶を取り戻し、ほんの少し申し訳なさそうな顔をして、帰ってくるに違いない。

 その時が来たら、どんな顔で迎え入れてやろうか。
 笑って許してやろうか。怒って叱ってやろうか。

 いずれにしても、町を越え村を越えて追いかけていった事を伝えよう。
 それだけ心配したのだと、それだけ想っていたのだと。

 ───いつか訪れる再会を夢見ながら、アランは瞼をゆっくり降ろしていった。