小説
ミニステリアリス奇譚
 相変わらずの暗雲で時間の感覚は分からないが、時計の短針は五時の時刻を指し示していた。さすがに朝という事はないだろうから、夕方だろう。

 今後の指針を打ち出してからのアランは、保管庫にある備蓄の確認、避難してきた住民達への説明、怪我人のもとへ訪問と奔走し、ようやく人心地ついた状態だ。

「おへやひろーい!」
「ここが王様の住んでるとこかー、へー!」
「こら!あんまりはしゃぐのはやめなさい!王様に叱られるでしょう!」

 3階がいつも以上に賑やかな様子を、アランは遠巻きに眺めていた。
 リーファの部屋と北にある正妃の部屋以外は開放を許可した為、城下の民が行き来しているのだ。

 部屋の割り当てを抽選する時間はなかった為、事情を知っている官僚やその家族が多いようだが、一世帯一部屋を守らせたので庶民も中にはいるようだ。

「お風呂良かったねー」
「あのオイルすごくない?見てよ髪の毛さらっさら…!」
「化粧水いい匂い…肌すっごい染み込む…ここ住むぅ…!」

 民の目に触れないよう人気のない廊下を歩いていると、3階の大浴場から出てきた女性達が歓喜の声を上げている。

(今日は使えないな…)

 出来れば大浴場でゆっくりしたかったが、今日ばかりはそうも言っていられない。
 しかし喜んでいる彼女達を見ていると、自然と口元が緩んだ。出来るだけ早く、こんな厄介な問題からは解放してやりたいものだ。

「今の所、何事もないか?」

 4階に通じる階段を守る衛兵に軽く声をかけると、彼は恭しく敬礼をした。

「はっ、現在特に問題はありません」
「往来する者が増えた故、見回りは大変だろうが…頑張ってほしい」
「勿体ないお言葉です!
 …実のところ、3階を開放して頂いてとてもありがたく思っております。
 シェルターは広く作られておりますので、人は多く収容できるのですが…。
 ここ数日で諍いも多々見受けられた為、どうしたものかと議題に上がっていたのです」

 へらっと笑ってそう教えてくれる衛兵を見て、アランも微笑みを零した。

「そうか。それなら何よりだ。───では、見張りは任せたぞ」
「はっ」

 再び敬礼をする衛兵の横を抜けて、アランは4階へと上がって行った。

 4階には王族用のウォーキングクローゼットと、王の寝室がある。
 寝室にはトイレとバスルームが併設されているから、食事以外はここにいれば人の目には留まらない。
 寝室前を見張らせている衛兵も階下の巡回に回したから、愚痴も溜息も気取られる心配はないはずだ。

(私が把握できている脱出路は、東の森の出口と、ヘルムートの北の祠の出口のみ。
 東の出口は分岐が多い。もし正面からの脱出が難しければ、北の出口を抜けて行くしかない。
 …こんな事なら、リーファにさっさと探させておけばよかったな…)

 最終手段の事が脳裏に過る。
 幸い食料の備蓄は日持ちするものなら一ヶ月分はあったので、当面は問題ないだろうが、先の事も出来るだけ考えておきたかった。

 誰もいない4階の廊下を見回し、寝室の扉を開けて。
 ───アランは、その先の光景に目を疑った。

「………何、故」

 口から、つい言葉が漏れてしまった。

 王の寝室は、入って左側にバスルームが、右側にトイレが個室になっている。
 その先が部屋としてのメインで、正面には円卓と二脚の椅子、左側に大きなベッドを備え、右側には暖炉や飾り物の黄金甲冑が置いてある。ベッドの側には本棚が置いてあるが、多くが先王の私物でアランの所有物はない。

 問題はそこではなく、円卓のその先だった。
 開け放たれたバルコニーに一人の老人がいて、城下の暗雲を眺めていたのだ。

 相当昔の研究員の正装は、先日仕立てたばかりのように鮮やかな緑色をしていた。長い白髪を一つにまとめた、小柄な男だ。
 禁書庫で司書をしている老人だった。アランは昔から”爺”と呼んでいた為、名前は知らない。

 老人はこちらに気が付き振り向いた。しわくちゃの顔は白い眉と髭に隠れ、周囲の暗さも相まって表情は読み取れない。
 世界の終わりのような光景を背に、老人はこちらに近づきながら長い髭をさする。杖をついてはいるが、足が悪い訳ではなさそうだ。

「何やら、懐かしくなりましてな。
 どれほど昔か…もうそれすらも、思い出せなくなりましたが」
「何を言っている」
「禁書庫で、お待ちいたしますぞ」

 聞いているのかいないのか。老人はアランの横を通り抜け、寝室を出て行ってしまった。

 寝室に独り取り残されても、アランはしばらく動く事が出来なかった。廊下へと出る扉を眺め、立ち竦む。

(爺が禁書庫の外にいる姿を見たのはいつ振りだ?
 延命の施術の研究をさせていたのは、十年以上は前…。
 しかし…あの頃とて、城内を歩き回るような事はしていなかったはず)

 老人の姿を目に留めた事で、様々な疑問が浮かび上がる。
 名前は?年齢は?出身地は?身内は?
 そして───

(まさか爺は、今回の事について何か知っているのか…?)

 戻ってきたばかりで部屋を出るのは躊躇われた。出来ればバスルームで体の汚れを落とし、早めに就寝したかったが。
 普段動かない者が普段にない状況で普段にない行動を起こしているのは、さすがに見過ごせない。

 心が訴えた。『行け』、と。

 アランは突き動かされるように王の寝室を出て、階下へ降りていく。
 途中、先程会話をした衛兵が降りて来る足音に気が付いて、声をかけてきた。

「陛下、お出かけですか?」

 一足早く降りていった老人の事を訊ねようか一瞬考えたが、何故か質問は無駄なような気がした。立ち止まり、衛兵に告げる。

「───少し、席を外す。
 もし誰かが私を探していたら、必ず戻るからしばし待つように伝えてくれ」
「はい!了解いたしました!」

 快活に声を上げ、衛兵は敬礼した。アランは満足げに頷いて、2階へ続く階段を降りていく。

 何故こんな事を言ったのか、自分でも分からなかった。
 しかし言わなければならない事なのだと、アランは感じていた。