小説
刻まれたその名は
 ほんの数分前に話は遡る。

 ラッフレナンド城3階の正妃候補に宛がわれた部屋で、側仕えのレーネは椅子に座り、独りテーブルのそれを見つめていた。

 丁寧にラッピングされた手のひら大の白い袋である。
 中には油付きの紙が敷いてあるので焼き菓子で袋が汚れる心配はないが、代わりに煤けた痕が残っていて、それが午前中の出来事を思い出させる。

 ───申し付けられていた通り、講義中は部屋で待機していたレーネだが、そこに図々しくも三人の女たちが乗り込んできたのだ。
 ノックもしなかったし挨拶もなしだ。彼女らはレーネの制止を振り切り、部屋のあちこちを暴き立てたのだ。

 そして、彼女らは見つけてしまった。この、主が昨日一生懸命作ったクッキーを。

 嫌な予感がしたから必死に止めた。引っかきもしたし、蹴飛ばしもした。
 しかし、三人がかりではどうしようもなく、引っ叩かれ、張り倒されて。

 やがて袋は目の前で絨毯に叩きつけられ、思い切り踏みつけられてしまった。
 ぐしゃ、と嫌な音もした。

 そこからはあまり覚えていない。
 気が付いたら袋をかばったまま絨毯に蹲っていて、物音を聞きつけて来た城の人達に介抱されていた。
 それからしばらくして自分の主が戻ってきて、部屋の有様に顔を青くしたのだった。

 主もレーネも、袋の中身までは確認していない。
 しかし、持った感触だけで駄目だと思い知らされてしまったから、王様にお渡しする事を諦めざるをえなかったのだ───

『他の方を出し抜いて、このような物を渡そうとしたわたくしが浅はかだったのです。
 ───良い、勉強になりました』

 そう言った主の悲しそうな顔を思い出すと、胸が締め付けられるようだ。

(こんなの、絶対におかしいよ…!)

 涙でレーネの視界が滲んだ。引っ叩かれた頬が痛くて、冷たくなった手で押さえる。体のあちこちもまだ痛い。

 あんな事をするのが将来国母となる人の側仕えだとか、おかしいのではないか。
 そんな側仕えを抱えている人が正妃になるなど、おかしいのではないか。

 ───ぐぎゅう。

 嫌な思考がぐるぐると巡っていると、お腹から情けない音が鳴った。
 どうも塞ぎ込んでいると小腹が空いてしまう。主にこの袋は処分するよう言われているのも、理由の一つだろう。

 ごくり、と生唾を飲み込む。

 形は駄目になってしまっただろうが、ラッピングする前に三人で味見をしたから味は折り紙付きだ。とても美味しく出来上がっている。間違いない。
 主が戻ってきた時この袋がまだ残っていたらきっと悲しむだろうし、今全部食べてしまった方が良いかもしれない。

 恐る恐る手に取り、ラッピングのリボンを解く。
 袋の口から、ふわ、とバターの良い香りが広がり、鼻を突き抜けた。もうそれだけで垂涎ものだ。

(これはエレオノーラ様にとって、悲しい思い出。嘆きの象徴。
 部屋に匂いが残ってるだけで色々思い出して、あの麗しい顔が悲嘆に沈んじゃう。きっとそう。
 我慢なんかしないでさっさと食べて、ちゃっちゃと歯を磨いて、匂い消しの香を焚いて証拠隠滅した方がいい。うん。
 ───うん)

 レーネは、自分の食い意地の汚さをそう心中で弁解する。
 そして意を決し、袋の口を開こうとした───その時。

 ───がちゃん。

「レーネ!!!」
「ひゃわああああっ?!」

 いきなり名を呼ばれて、レーネは心臓がひっくり返りそうになった。すぐさま袋をテーブルに押し戻し、身を竦ませる。

 椅子の上で頭を抱えて蹲って、「あれ?」と思って扉の先を見やると、そこにはこの国の王様と、自分の主がいた。
 主は、何故か王様に抱き上げられている。とても微笑ましい光景だが、主の表情は切羽詰まっていた。

「あの、クッキー、まだ残ってますか?!」
「は…っ、はいい!こ、こちらです!」

 主に言われるがまま、テーブルに置いていたクッキーの袋を手に取り、主の前まで行って跪いて差し出した。

「あっ」

 差し出してからリボンを解いていた事を思い出し、レーネの顔色がさっと青く染まった。その場ですぐさまリボンを結いなおし、頭を深く下げつつ再献上する。

「た、食べてません!食べてませんので!
 ちょっと、リボンを外しただけです!中身も見ていません!」

 間違った事は言っていないのだが、果たして信用して貰えるのかどうか。

 抱きかかえられていた主は王様に顔を向け、その場に降ろしてもらう。
 震えるレーネの心配を余所に、主はその袋を受け取り王様に差し出した。

「………陛下。
 この通り、とてもお渡しできる代物ではなく。
 今も側仕えに処分させようと思っていた物でございますが…。
 …わたくしの気持ちとしては、やはり陛下に受け取って頂きたいと思っております。
 お受け取り、頂けますでしょうか…?」

 王様の反応は早いものだった。
 クッキーが出来上がる前から既にそれは自分の物だ、とでも言いたいのか、さも当たり前のように王様はそれを取って、大事そうに両手で包み込んだ。

「ああ、勿論だ。味わって食べるとしよう」

 ぱあ、と。
 主の顔立ちに笑顔が戻る。青い瞳は雫で溢れているが、その表情はとても美しい。

(ああ───本当に、本当に、良かった…!)

 レーネも、心の奥底から安堵した。先程とは違う、感極まった涙が溢れそうになって、彼女はずずっと鼻をすすった。

(これでエレオノーラ様が辛い思い出を抱えて帰路につかなくて済む…。
 きっと帰ったら、ほくほく顔でお父上に報告をして下さるわ。
 …ん?もしかしたら、王様もエレオノーラ様の麗しさと気高さに惚れ込んで、正妃として迎え入れてくれるかも?
 クラインじゃあ”小麦の里の妖精”なんて言われてるエレオノーラ様だし。
 あんな性根腐った年増連中を選ぶくらいなら、ちょっとの年の差くらい十分許容範囲というかむしろ全然アリ───)

「レーネ…と言ったか?」

 名乗ってもいないのに急に王様が名前を呼んでくるので、妄想に浸りかけていたレーネは軽く飛び上がるほどびっくりした。
 背筋をぴんと伸ばして、口元を引き締め眼前の王様を見上げる。

「は………はい、陛下!」

 声を張り上げたものだから王様は怪訝な顔をしたが、簡潔にレーネに用事を申し付ける。

「ここで茶会をする。城のメイドに給仕をするよう伝えてきて欲しい」
「か………畏まりました!」

 ばしっと敬礼をして見せて、レーネはばたばたと部屋を出ようとした。
 それがあまりに忙しなかったからか、主から抗議の声が上がる。

「れ、レーネ!廊下を走ってはいけませんよ?!」
「は!すみません!───失礼しまっす!」

 気合を入れた敬礼をもう一度して見せて、レーネはそっと部屋を後にした。

 廊下で走るなと言われたが、気持ちはどうしようもなく浮かれていた。自然と体が軽く感じ、スキップしたい衝動に駆られたが、そればかりは頑張って我慢しなければならない。

 茶会の時間は、主にとってそれはもう楽しいものになるだろう。
 にやける顔を堪えながら、レーネは廊下の先にいた城のメイドに声をかけたのだった。