小説
刻まれたその名は
 アランのお見合い、三日目の午後に差し掛かる少し前。
 ウッラ=ブリットから解放され最後の候補と落ち合うまでの短い間に、アランは本城の3階へと足を運んでいた。

 正妃候補への配慮もあって本来なら立ち入る事はしないのだが、こうでもしないと気も紛れない。
 アランは足早に廊下を歩き、目的の部屋の扉を叩く。

 ───コンコン。

「リーファ、いるか?」

 側女の部屋をノックすると、部屋の中から何か物音が聞こえた。慌ててぱたぱたと音が近づいてくる。

「アラン様…じゃなくて、陛下?何故、ここに…?」

 扉の先から、いつものリーファの声が聞こえてきた。しかし当然ながらアランの来訪は予期していなかったようで、戸惑った様子が声から伝わってくる。

「用が無ければここには来ない。開けるぞ」
「だ───駄目です!」

 ドアノブを回そうとしたら突然拒絶され、アランは眉根を寄せた。
 どうやらリーファもノブに触れているらしく、扉を開けさせまいと押さえ込んでいるようだ。

 声を荒げた事でリーファも我に返ったらしく、慌てて言い訳をしてくる。

「あ、あの。
 今すごく散らかってて………とても陛下に見せられたものじゃなくて………!」

 何故か嫌な予感がアランの脳裏を駆け抜けた。この感覚は、つい最近も味わった覚えがある。背中の産毛が総毛立つような不快感だ。

 あまり乱暴な事はしたくなかったが、アランは力任せにドアノブを回し、扉を引き開いた。

「わあっ?!」

 ノブを掴んでいたリーファが開かれた扉と一緒にこちらに倒れこんできて、アランはその体を抱きとめる。

 戸惑っているリーファを抱き上げ、側女の部屋に入り───アランは目を疑った。

「───なんだ、これは」

 ほんの数日前まで行き来していた側女の部屋は、その姿を変えていた。

 ベッドのクッション、カーテンは無残に切り裂かれ、クッションからは羽毛が飛び散って絨毯に広がっていた。
 マットレスは何かの液体が撒き散らされていて、異臭を放っている。
 左のクローゼットは開けられたままで服は一着も入っておらず、リーファの私物だった杖はへし折られてその場に転がっていた。

 右を見れば、壁にかけていた絵画が斜めに切り裂かれていて見る影もない。
 側の暖炉は服を燃したのか燃えカスが燻ぶっていた。

 正面のテーブルには一冊の本が置かれていた。アランも知っている。禁書庫の爺から借りていた子守の本だ。
 しかしそれもページが破り取られ、ソファの周りにばらまかれている。

 奥の筆記机にも破り捨てられた紙が散乱していた。届いた手紙を保管していたから、恐らくはそれだろう。

「ごめん…ごめん、なさい………こんな事になっているなんて私………私………!」

 リーファは腕の中ですすり泣いている。随分泣いたのだろう。涙で目を赤くした側女の姿は見るに堪えない。

 アランは噴き零れそうな憎悪を辛うじて押し留め、口を開いた。

「何が、あった」
「ごめんなさい…!」
「リーファ!!」

 名を呼ばれ、リーファは怯えに身を竦めてアランに顔を向けた。肩を震わせ、自分の王を見つめてきた。
 アランは宥めようとリーファを強く抱き、彼女の額にキスを落とす。
 リーファが目を閉じると、涙の川から雫が滴り落ちた。

「責めなくていい───何があった」

 リーファは胸の中で深く呼吸を繰り返し、感情を整えている。涙を袖で拭い鼻をすすって、ぽつりぽつりと話し出した。

「昨日から…部屋を出入りする度に、物が無くなる事が、あって…。
 手紙とか、エリナさんから貰った薬とか、杖が…。
 怖くなって…夜から、爺様の所に行っていたんです…。
 そして、さっき戻ってきたら…こんな事に、なっていて───」

 虚ろな目でアランの胸に触れるので、アランはゆっくりとリーファを降ろす。
 覚束ない足取りでテーブルに散乱した本のページを拾い集め、薄く笑って呟いた。

「爺様から借りた本…これじゃ、もう、返せない…ですね………。
 う、うっうっ………ああぁ………!」

 本だったそれを抱き締めて、リーファはへたり込んだまま泣きじゃくる。

 リーファの小さい背中を見下ろし、アランは湧きあがる激情を抑える術を見失っていた。

 こうなる可能性自体は、全く考えなかった訳ではない。
 親の爵位で自分の立ち位置を勘違いする者達だ。庶民の女をどのように扱うかなど、容易に想像出来る。
 しかし、今はただの貴族令嬢である彼女達が、王の所有物まで害そうなどと愚かな事は考えまい───そう、思いたかったのだ。
 まさか、ここまでとは。

「───冗談ではない」

 ぎり───と、アランは歯ぎしりをする。奥歯に力がかかりすぎて、口の中に鉄の味が広がっていく。

 何もかもがどうでも良くなっていた。
 次の正妃候補との見合いも、女達の下らない小競り合いも、見合いと言う義務も、心底どうでも良い。
 何なら、王と言う地位すら犬にくれてしまいたい。
 大切なもの一切を守る事も出来ないのなら、こんな立場に何の意味もない。

「こんな事をしでかす女を正妃になど出来るか!!
 見合いなど全部破談にしてくれる!」

 アランは怒り狂い、開け放たれた扉から廊下へと出ようとした。まずは正妃候補達を呼び集め、問い質さねばならない。

「ま、まって───待って、下さい!」

 我に返ったリーファはまとめていた紙束を手放し、憤り部屋を出ようとしたアランの腰に抱きついた。物語を彩っていた白い紙が、またテーブル周辺にまき散らされた。

 身重の体を振り解く事は憚られ、アランは止む無く足を止めるが震える程の怒りは治まらない。

「全員、全員とは限らないですから…!どうか一緒くたに責めないで下さい。
 あと半日、あと半日我慢すれば………我慢すればいいんですから…!」
「我慢してどうなる?!
 今後もこのような事が続けば、お前がただ居づらくなるだけではないか!」
「私は!」

 強い口調で叫んだリーファは、後の言葉をとてもか細い声で繋いだ。

「私は、側女ですから………」

 リーファの手が、アランのマントを強く握りしめる。いつもならしわになる事を気にする女が、それよりも大切な事だと言わんばかりに言の葉を続ける。

「正妃様は国に必要な人ですけど………側女は、必ず要る者ではないはずです。
 アラン様が見初めた人が、私を嫌うのなら、それは仕方がない事なんです…」

 リーファの震えがアランにも伝わってきた。昂っていた感情に別の感情が入り混じる。
 ゆるりと振り返りリーファを見下ろすと、いつも小柄だと思っていた女が、今日はより一層小さく見えた。

(───ああ、まただ)

 この感情が何か、最近ようやく理解出来るようになった気がする。

(またお前は、私の事よりも国の事を優先する)

 これは恐らく、”嫉妬”だ。

(そして今度は、自分の事すら蔑ろにするのか)

 自分は”アラン”として、”ラッフレナンド王”に嫉妬している。

 それがどれほど滑稽な話だろうかと、自嘲した。どちらも自分であるのに、リーファの言動一つ一つがその感情を湧き立たせている。
 リーファは自分のものなのに。”王”のものではないのに、と。

 怒り一色に染まっていた感情に嫉妬が入り混じり、アランの心にぽっかりと穴が空いたような気がした。
 自分を疎かにしたリーファを鼻で嗤う。

「………ふん、馬鹿め。そんなクズ女、私が見初めると思うか」
「………」

 リーファは俯き、無言で首を横に振る。
 アランの”目”に黒いもやは見えない。彼女がアランを信じているのだと解釈して、ほんの少しだけ溜飲を下げた。

「ならばいい。明日、候補と側仕え全員を尋問する。
 今の私の”目”なら全員クロだと断じるだろうが、ヘルムートのモノクルを使えば分かるだろう。
 候補、側仕えのいずれかがこの有様に加担していたのなら、どちらも同罪と見なして処罰する」

 リーファの肩がびくりと震え、おず、と顔を上げてきた。不安と怯えを宿した瑪瑙色の双眸がアランを見つめている。

「そ、それは…」
「王城で王の所有物を害した行いを許しては、下々に示しがつかん。理解しろ」
「………は、い………」

 渋々ながら、リーファも納得はした。城を管理する者として、不祥事解決の必要性は理解したようだ。