小説
刻まれたその名は
 リーファは闇の中、静かに目を覚ました。

 どれだけの時間が過ぎたのか、そればかりは分からないが。
 痛みも、苦しみも、周りの励ます声も、自分の泣き叫ぶ声も。
 そして、やがて誰からも零れた諦めの溜息も。
 全て、覚えている。

(………ああ)

 目尻からこぼれ落ちる涙を拭う事も億劫で、部屋の天蓋を見上げる。
 いつもの側女の部屋かと思ったが、部屋に広がる誰のものでもない匂いがそれを否定していた。恐らく別室だろう。

(何にもならなかった)

 また一筋、目尻から伝って流れた。
 胎の子は逝ってしまった。恐らく見合いも全て破談となってしまっただろう。
 せめて何かが成ればと思っていたのに、結局全てが台無しになってしまった。

 ───何がいけなかったのか、そればかりを考えていた。

 見合いの日程を先にしてもらうべきだったのか。
 独り実家に戻っているべきだったのか。
 アランから離れるべきだったのか。

 こんな、何にもならない女に、何の価値があるのだろうか───

「何故泣いている?」

 聞き慣れない低い声音が、リーファの耳に触れた。
 アランやヘルムートの声ではない。もっと心の奥深くから響く声に、リーファは目だけを動かして辺りを見回し、そして見つける。

「あなたは…」

 ベッドの左側に、一人の男が佇んでいた。

 茜色の髪は真っすぐに腰まで伸び、同じ色の瞳がリーファを見下ろしている。足元までの長さの貫頭衣に金糸の袈裟の上掛けを羽織った男だ。顔立ちはとても整っているが、そこに感情らしき感情はない。

 一度だけ見た事があった。確か、アランと一緒にグリムリーパーの城に行った時に会った───

「ザハリアーシュ。父なる王はそう私を名付けた」

 そうザハリアーシュは名乗る。

 グリムリーパーの王ラダマスに、妊娠の報告と一緒に城下の代行者の派遣をお願いしていたのだ。恐らく、それで彼が来てくれていたのだろう。

「何故泣いている?」

 淡々と、ザハリアーシュは訊ねてくる。
 彼が何故ここに来てくれたのかは分からないが、彼にとってそれは必要な問いかけなのだろう。

 体を起こそうとすると、鈍い痛みが走って辛い。リーファは首だけ動かして、ザハリアーシュに答えた。

「大切な人を、亡くしました………守らなきゃ、行けなかったのに。
 私だけが、助けられたのに………」

 顔を傾けたら後悔が溢れ、また雫が目尻から落ちていく。

 彼は神妙な面持ちで頷いて、ゆるりとリーファに指を差し示した。

「それは、その魂か」

 その指先がリーファを示していない事に気づくのに、少しだけ時間がかかった。

「──────」

 自分の右肩の方を示すそれを見て、大きく目を見開く。
 何故気が付かなかったのか。こんなに大きくて、こんなに側にいたのに。気が付かないはずはないのに。

「あぁ………ああ………!」

 そこにいたのは、親指ほどの大きさの白くぼんやりと発光するもの───魂だった。
 思い出を得たのだろうか。ほんの少しだけ、この子の生涯を表す白い帯が伸びていた。

「其方の側から離れないでいた」

 涙が止めどなく溢れてくる。嗚咽が止まらない。痛みを堪えてどうにかリーファは体を横に倒し、両手でその魂を包み込んだ。

「ごめん、ね…!
 守ってあげられなくて………ごめんね………!!」

 きっと誰かに聞かれてしまうだろう。毛布で口を押さえ極力声を抑えたとしても、誰かが駆け込んできてしまうに違いない。
 それでも、この涙を止める事は出来ない。
 この魂の全てを奪ってしまった無力な自分に今出来る事は、泣いて詫びる事だけなのだから。

 ───不意に。
 リーファの頭を、何かが触れてきた。
 それがザハリアーシュの手なのだと知ったら、急に体を軋ませる痛みが和らいでいく。

 淡々と、ザハリアーシュは告げる。

「父なる王は、私の手は”魔王の癒し手”と───同胞を癒す手だと、教えてくれた。
 失われたものは戻らぬが、痛みを取り除く事は出来よう。
 …今は思うがまま、在るがいい」

 同胞の慈悲に触れ、リーファは少しの間、その魂を抱えてすすり泣いた。

 ◇◇◇

 ───泣いて。泣いて泣いて。泣いて泣いて泣いて。

 涙の川で全てを押し流してしまう事もなく、枕とシーツに染みを作るささやかなものであったが、その間ザハリアーシュは静かにリーファの頭を撫でてくれていた。
 彼の手は心地よく、体と心を温かくしてくれているようだった。傷を癒す魔術とも違う、不思議な力だ。

「ありがとう…ございました」

 ようやく体を起こせる程に癒されたリーファは、ベッドの縁に腰かけるザハリアーシュに頭を下げる。

「…その魂、受け持とうか?」

 それは非情ではあったが、正しいグリムリーパーの在り方には違いなかった。
 手の中に収まる小さな我が子の魂を見下ろし、リーファは静かに首を横に振った。

「いえ………私が、この子に出来る、最後の務めです………私が」
「…分かった」

 この子に捧げる涙は枯れ果てた。これ以上ここに残していても、この子の為にならない。

 リーファは魂をすくい上げ、口の中に放り込んだ。
 味もなく、綿を含んでいるようなそれをゆっくりと嚥下して魂を送る。

(さようなら)

 もう涙は出なかった。泣くことなど出来ない。泣いてなどいられない。

「ラダマス様に、伝えて下さい………。『仕事に戻ります』と」

 リーファの言伝を受けて、ザハリアーシュは目を伏して頷いた。

「…伝言、確かに」

 目的は達せられたのか、彼の姿は夜の闇に消えていく。もう何も残らない。

 ザハリアーシュがいた場所をただ見つめて、リーファは目を細めて思う。

(甘かった)

 油断していた。何とかなると思っていた。
 自分の場所が、全てを包み込む上等なクッションの真ん中だと思い込んでいた。

 戦場なのだ、ここは。
 大切なものは守らなければ容易く奪われてしまう。
 武器を───傷つくのを恐れて使っていなかった武器を手に取らなければ、生き残れない。
 それによって”魔女”と蔑まれ、恐れられる事になろうとも。

(強く、ならないと)

 瑪瑙色の瞳に、光の揺らめきが戻っていく。