小説
夫婦の真似事の果てで
 春の温かさがうたた寝を誘うような、とある日の午後のラッフレナンド城。

「もう…もう、許して下さいよぉ…!」

 自分の”耳”が助けを呼ぶかのような声を捉えたものだから、ヘルムートは急ぎ執務室へと向かっていた。走りたいのはやまやまだが、周りの目があるから落ち着きつつ最短距離で廊下を歩く。

「ほんの、ほんの少しの間だけなんですから…寄り道しないで戻ってきますからぁ…!」
「そんな事を言って、どうせお前は鳥のように飛んで行ってしまうのだろう?
 困った女だ………やはり、首輪をつけておかねばならんか」

 声を荒らげている女の声は、側女のリーファ。人でなし発言をしている男の声は、王であるアランだ。
 リーファの”声”は遠くからでもよく届き、且つ惹かれる声質をしているのだが、今はそれを防ぐアクセサリーを身に着けているので常人と変わらないように聞こえる。

 しかし最近、兵士のカリキュラムに『側女殿の声に惑わされないように集中すべし』という文言が追加されたらしく、リーファの”声”に抗う事を訓練の一環にしているらしい。この為リーファも、プライベートに関わらない範囲でアクセサリーを外すなど対応しているとか。

 つまり今のこの状況は、プライベート過ぎて誰にも聞かれたくない会話だという事だ。

「もうやだぁ………」

 リーファの嘆きに嗚咽が混じった所で、ヘルムートはノックもしないで執務室の扉を開けた。

 ───カチャンッ

「そこまでだよ」

 執務室の扉を開けた先の光景は、概ね想像していた通りだった。
 正面の執務机の先でアランは椅子に腰かけ、リーファはアランの側に立っていた。リーファの腕はアランに掴まれており、半べそかきながらその手を引き剥がそうと必死だ。

「ヘルムートさまぁ………」

 リーファは瑪瑙色の双眸に涙をいっぱい溜めて、ヘルムートに懇願の眼差しを向ける。

 不機嫌に唇を尖らすアランに、ヘルムートは淡々と告げた。

「会話は耳でちゃんと聞いていたよ。だから説明は要らない───さあ、リーファを離すんだ」
「………………」

 むくれたまま、しばしヘルムートを睨んだアランだったが、リーファが顔を青くしてぷるぷると震えだすと、ようやく渋々と彼女から手を離した。

 解放されてほっとしたのも束の間。リーファはすぐさま執務室の扉に小走りで近づく。

「ヘ、ヘルムート様。ありがとうございましたっ」

 すっと道を譲ったヘルムートにお礼を言って、リーファは執務室から出て行った。

 扉も閉めずにぱたぱたと廊下を走って行くリーファの背中に、ヘルムートは慌てて声をかけた。

「あ、今2階は使えないから、上か下に行きなよー」
「え?───あ、は、はいっ」

 ヘルムートの言葉に一瞬振り返り、何とか聞き取ったのだろう。リーファは再び廊下の先へと駆けて行った。

「………………さて、と」

 リーファを見送り執務室の扉を閉め、ヘルムートは不機嫌なアランに向き直る。

「いい加減、機嫌直したらどうなんだい?」
「………別に、機嫌が悪い訳では」
「じゃあ何で、トイレに行きたがっていたリーファに、ココでさせようとしたのかなー?」
「………………………」

 頬杖をつき、アランは沈黙したままそっぽを向いている。

 ───少し前、止められていたにも関わらず、リーファが勝手に城から外出した事があった。

 時間としては数時間程度。日付が変わったか変わらなかったかという位には帰ってきたのだが、その間のアランは相当気を揉んでおり、罰としてリーファには外出禁止が言い渡された。
 リーファも自分勝手な行いを反省しており、その罰を甘んじて受け入れているのだが───

 それからというもの、アランはリーファが視界内に入っていないと気が済まないらしく、あの手この手で側に留めようとするのだ。

 今も、トイレに行きたがっていたリーファに対し、『私は忙しいが、お前は目を離すとどこかに飛んで行きそうだからここでしろ』と無茶振りをしていて、それを慌てて止めに来た形だ。

「あれからリーファはちゃんと君の言う事を聞いてるじゃないか。
 もう君だって怒ってる訳じゃないんだろう?
 いい加減、いつも通りに接してあげてもいいんじゃないか?」
「………………………………」

 アランは黙り込んだまま動かない。聞いてない訳ではないのだろうが、反応したくはないようだ。

(子供じゃないんだからさぁ…)

 言いたいけどその言葉だけは口の中に押し留めた。これを言ったら、もっとこじれてしまう。

 一度拗ねだすと長い事は、付き合いの長いヘルムートはよく知っていた。
 こういう時ヘルムートは、時間が過ぎるのを待つか、別の話を振って感情を逸らすかどちらかをするようにしている。

 今回は別の話を振る事にしてみる。これも、話しておかなければいけない事だ。

「…そういえば話は変わるけど、君たちあの”家”で随分楽しんでるらしいね」
「………何だ、急に」

 案の定、と言うべきか。機嫌は変わらないながらも、アランは渋々顔をこちらに向け反応した。単純だ。

 あの”家”というのは、リャナから借りている”ちょめちょめしないと出られない家”の事だ。略して”ちょめ家”というらしいが、ここでなら”家”と呼んでも分かってくれるのでそう呼んでいる。

「リーファから聞いたよ。
 同衾だけだと思っていたけど、炊事、洗濯、掃除………。
 あの”家”で出来る事は、一通りしてるんだってね。
 君手ずから、料理も振る舞うそうじゃないか。『意外とレパートリーが多い』って彼女喜んでたよ」
「………何が言いたい」

 不満の矛先は、無事ヘルムートに向けられたようだ。

(これで少しはリーファへの束縛も控えめになるといいんだけど)

 と思いながらも、ここで話を締める気はない。こちらの方がある意味重要なのだから。

「───夫婦の真似事は、楽しいかい?」
「…!」

 一瞬で。アランの怒気が膨れ上がる。
 眼光はより鋭く、歯は食いしばり、動揺したのか肩が揺れた。机に置いた手は握り拳を形作っている。
 兵士であれば恐縮するばかりだろうが、アランが腹を立てた程度で竦んでいたら側仕えなど務まるはずがない。

「先の見合いからもう四ヶ月が経ったよ。
 リーファの不調、呪いのごたごたもあったから、なかなか切り出せなかったけど…。
 今日も一件見合いの話が来てたし、もう気持ちを切り替えて行っていいだろう?」
「………………………」
「僕は心配してるんだ。
 君があの”家”に籠って、リーファとの疑似夫婦生活に満足して。
『ずっとこのまま、時が過ぎればいい』───そんな風に考えてないかって」