小説
心のある場所を離れて
 夜も更けた名も無き街道。近場の町の者ですら立ち入らないそんな頃合に、一人の女性が歩いている。
 桃の花を思わせる色彩の長い髪を髪留めで結い上げ、色鮮やかな羽根飾りを添えた女性、那由羅だった。
 彼女は小さな荷物袋を肩にかけ、空の左手を居心地悪そうに動かしながら、街道の先を進んでいる。
 街道には盗賊が出るという話はない。魔物の姿も殆どなく、素通りするだけなら何ら問題はないのだろう。
 ただ、真夜中に草の原しか広がってない薄気味悪い街道を歩くような心虚ろな人を、闇が呑み込んでしまう事がある───そういう言い伝えが、この辺りにはあるらしい。
 もっとも、今日は夜空に満天の星々が輝き、月も導きを手助けしている。呑まれてしまう心配はないだろう。
 ───ただ、一つの懸念を除けば。
「旅の供も連れず、黙って独り行く気か?」
 突如背後から聞こえてきた女性の声音に、那由羅は驚く事なく足を止めた。首だけ声の主に向け、口を開く。
「…手紙は置いてきたわ。友人達にも話をしてある…私の中では、間違いなく最良の配慮をしたわ」
「その割には、顔色が優れないが?」
「あなたに言われたくないわよ。私より青白い顔してるくせに───それより、人の心配をするなんて、『らしく』ないじゃないの?」
 その問いに、声の主が言葉を返す事はない。
 期待通りの反応に、那由羅はため息を一つ漏らした。
「まぁ、今日は黒い雲の嵐も出てなかったんだけど、なんか来そうな感じがしたのよね───魔界の女王、クローディア」

 豪奢な金髪を背に広げ、勿忘草を想起させる蒼い肌。そして半面の仮面の先に見える、リコリスの花にも似た真っ赤に燃える双眸。
 いつか、「あなたの姿は、まるであなた自身の心を映しているようね」と皮肉ったのを思い出していると、彼女は苛立たしげに再び問いかけてきた。
「御託はいい。それで、なんでいきなり独りで出て行こうとする気になったのだ」
「やだ、愚痴聞いてくれるの?本当にあなたクローディア?」
「黙れ。言わないのなら妾は帰る」
「黙れって言ったり、言えって言ったり───ああ、はいはい。言います、言いますから」
 本気で帰ろうと背を向けようとしている魔界の女王の腕を捕まえると、彼女は不機嫌そうに自分の腕を見てきた。慌てて腕を離すと、彼女は鼻息を荒くして腕を組んだ。
 彼女らしくなく辛抱強く待っているクローディアから、那由羅は夜空に視界を移す。どこまでも続く草原の頭上、煌々と輝く星の中、零れるように落ちていくほうき星が目に留まった。
「音がね、聴こえなくなったの」
「音?」
「ええ」
 耳の裏に手を添えて、彼女は瞳を閉じる。唇を閉ざせば、どこまでも深くどこまでも暗い、音の無い世界。
「人の声も聞こえる。魔物の声も聞こえる。───でも、楽器の奏でる音はおろか、星の煌めく音も、海の波の音も、草の葉擦れの音も、耳に届かないの」
 瞳を開けクローディアに目を向けると、珍しく驚いたように目を見開いていた。
 自分の額から冷や汗が零れ落ちていくのを感じながら、那由羅は手の甲で顔を拭う。
「始まりはいつだったかな…一年も二年も前だった気がするけど。だんだん音が聴こえなくなって…二胡の演奏は、何とか指と弦の震えで感じ取っていったんだけど、最近はさっぱりね。今じゃ夜寝るのも怖くて」
「…それで、夜通し歩き回っていたのか」
「ん?詳しいじゃないの?」
「花を荒らしに行った時、あまりにもまめに世話をしているからいつ寝てるんだとカルマが」
 言われて、春の夜の珍事を思い出す。朝には開花が見込めた為、つぼみが開く瞬間を見ようと雑草をむしっていたところ、カカシに驚いたらしい魔剣カルマが悲鳴を上げてすっ転んでいた。
 「こんな失態をクローディア様に知られたら…」なんて深刻そうにしたので、草刈りを手伝う条件で黙っている事にしたのだ。
 当人は不本意そうだったが、翌日の朝、魔剣と共に見た花々の咲き誇った姿は、感慨深いものがあった。
「そんな事もあったわねぇ…クローディアもガーデニングしてみたら?癒されるかも」
「城にわんさとイバラが生えている。今更要るか」
「残念ねぇ。カカシ立てたら面白い光景が見れるかもしれないのに」
 クローディアは一瞬だけ眉根を寄せたが、那由羅の口からそれ以上の言葉は出ないと思ったのか、詮索はしてこない。フン、と鼻で笑いそっぽを向いた。
 那由羅も彼女の見る方を仰ぐ。遠い向こう、夜空と草原の境界で、町の灯かりと思しき小さな光の玉が浮かんでいる。
 この光景を見ていられるのも、あとわずか。
「………まぁ、そういう事よ。一応、治すつもりで努力はしてみるけれど、どれ程の時間がかかるか…ちょっと、分からないわね」
「…楽器はどうした」
「友人に預けたわ。…人も魔物もあまり来ない場所へ隠してもらってある」
「そうか」
 クローディアは一言だけそう返すと、町明かりのある方へと数歩歩き出した。足を止めると同時に、彼女の周囲に夜の闇とは違う、どす黒い霧のようなものがまとわりついていく。
 音は聴こえないが、霧の発生によって草花のなぎ倒され行く様を見る限り、相当の風音が響いているらしい。
「もう行くの?」
「ああ───自らも維持出来ぬ負け犬など、興味に値せん。もうここに用は無い」
 暴風吹き荒れる中、届くかどうか自身はなかったが、意外にもすんなり返事は返ってきた。相変わらずの憎まれ口だったが。
「頑張るのもいいけど、あんまり無理して暴れまわっちゃダメよ」
「…何様だお前は。妾は妾のやりたいようにやる。指図される言われはない───もっとも」
 そこで区切って、彼女はこちらへ振り向いた。
 仮面の先の双眸のわずかな揺らぎとは対照的に、口から漏れた声音は低く、言葉は皮肉に満ちていた。
「妾が手を下さずとも、この世界は勝手に朽ちていくだろうがな」
 言い終わるや否や、彼女がまとった闇の霧が弾け飛んだかと思えば。
 クローディアの姿は、草原のどこにもなく、その存在は露と消えていた。
「…………………」
 那由羅の耳には、もう何も聞こえてはこない。悲愴の混ざる彼女の声も、普段の静けさを取り戻した草の音も、土を踏みしめる音も、何もかも。
 でもその音は、確かにこの場に存在しているはずだ。ただ、音聴く気持ちを塞ぎこめているだけ。
「…この世界は無くならないよ。───あなたがここにいて、それを誰かが認め続ける限り、この世界はあなたのもの。あなたの…心のある場所なんだからね」
 彼女は町の灯かりに背を向け、果ての見えない街道へ一歩を踏み出した。
「もし戻ってこれたら、必ず、あなたに会いに行くわ………きっと、どうしようもなく、会いたくなるはずだから───」
 届く事にない那由羅の言葉を、草原の風が押し流していく。
 満天の星々は、いつもと変わらずミ・ディールを照らし続けている。
- End -
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