小説
半年越しの覚悟
 ラッフレナンド城の朝。

 朝日がほんのりと空を照らし始めた頃合に、ある部屋のベッドの縁に一人の男が腰掛けている。
 ウェーブがかかった金色の髪は背中の中ごろまでの長さはあるだろうか。日の影に触れた瞳は深い藍色に輝く。漆黒の礼服に白い外套を羽織った長身の男だ。

 彼が見下ろす先には、茜色の髪を二つに分けて三つ編みで結っている一人の少女が眠りについていた。
 小柄なせいか実年齢よりも幼く見える彼女は、素肌にシーツを巻いただけのあられもない姿でベッドに深く沈んでいる。シーツから出ている首と肩と腕には青痣と歯形が所々に見られて痛々しい。

 ふと、廊下の方で物静かな足音が聞こえてきて、彼は何となく入り口の向こうを見やる。
 メイドだろうか。こちらの動向に気付くはずもないその足の主は、歩調を変えずに廊下を抜けていく。程無く、足音は静寂の先に消えた。

 改めて、彼はベッドの少女に目をくれる。
 大分長い時間をかけて彼女を眺めた男は、左手でその茜色の髪の束を手に取った。

「う…」

 軽く引っ張った為か、少女が小さく声を上げるが目は覚まさない。

 男は編み込み部分や毛先に指を滑らせしばし感触を楽しみ、右手の中にあるそれを添えた───恐ろしく鋭い、二つの刃を。
 しゃん…と、沈黙の部屋の中で甲高い音が響いた。

 ───それから一時間程経った頃。
「ぎゃあああぁあぁあああああぁ??!!」
 その部屋を寝床にしていた少女の悲鳴が、城全体に響き渡った。

 ◇◇◇

 ヘルムートはその時、朝食を終えて城の食堂を出た所だった。
 いつになく悲壮感溢れる声が鼓膜を否応なく震わし、たまらず耳を塞ぐ。

 周囲を見れば、兵士やメイドや役人や召使が似たような顔をして声の発生源の方を見ている。
 と言っても、視線の先には城の壁があるだけなので、声の主がいるであろう部屋の方角を見ている、と言った方が正しいかもしれない。
 彼らはほんの少し興味を示したようだが、すぐに何事もなかったかのように自分の持ち場に戻っていく。

「…またかあ」

 ヘルムートは顔を手で覆って溜息を吐いた。気を取り直して城内へと入っていく。
 役所の窓口を横切り、階段を上がり、3階の空き室の目立つ廊下を抜けていく。
 兵士も巡回する為3階南側の中庭は華美とは言えないが、花壇の花は綺麗に咲かせていた。

(ガーベラ…だったかな?確かミアが好きだったっけ…)

 現実逃避しつつ向かった側女の部屋は、扉が開け放たれていて誰もいなかった。どうやら入れ違いになったらしい。
 ならば悲鳴の主は2階の執務室か、とあたりをつけてヘルムートは頭を掻きつつ階段へと引き返した。

 階段を降りてすぐ、執務室前の廊下にギャラリーが集まっている状況が目に留まる。
 開けっ放しの執務室の扉から、少女の金切り声が聞こえてきた。

「もう嫌です!毎っ日毎日、こんな子供みたいな事して!
 私の事が嫌いなら嫌いってはっきり言って下さいよ!」
「断る。何故私がお前に指図されねばならんのだ」
「なんだなんだ。随分今日は賑やかだね」

 駆け寄り、群がっていたメイド達を解散させてヘルムートが執務室に入ると、涙を瞳いっぱいに溜め込んだ少女が彼の胸に飛び込んできた。

「ヘルムートさまぁああぁあ〜」

 王の側女であるリーファがめそめそしながら抱きついてきて、ヘルムートは子供をあやすように彼女の頭を撫でる。

「よしよし、朝っぱらから世界中の不幸を集めたような顔して泣かないの。
 …って、あれ?髪短いね。イメチェン?」

 改めてリーファを見下ろすと、少女の豊かな三つ編みが根元からばっさりとなくなっていた。
 茜色の髪は不揃いに広がり、慌てて羽織ったらしいローブには切り落とされた髪の毛が散らばっている。

「陛下に切られましたあぁあー…」
「…アラン、なんでまた」
「逢引の最中で髪が乾きにくいとか文句を抜かしたからな、切ってやった」

 執務室の椅子に腰掛けていたアラン=ラッフレナンド現王陛下は、不服げに手の中のそれを弄んでいた。リーファと同じ茜色の髪の束だ。

「随分髪が傷んでいるな。まあ、庶民の小娘はさすがに髪にかける金はないという事か。
 刈り揃えて手入れを怠らねば、少しはマシな髪質になるのではないか?
 王自ら手を加えてやったというのに、感謝の言葉の一つも出てこないとは。
 育ちが知れるな」

 ふんと鼻で笑って、アランは机の横にあったくずかごにぽい、と髪束を投げ入れた。

 その光景を見せ付けられたリーファは、その場に力無くへたり込んだ。どこにそんな水分が残っているのか不思議に思うくらいの、大粒の涙をぼろぼろと零す。

「わ…わたっ………む…し………かみ…れ…て。
 あ、あれから、ずっと…の、のばして…たのに………っ!」
「あーあーあー」

 泣きじゃくりながら必死に言葉を紡ごうとするリーファの背中を、ヘルムートは撫でる。

 彼女のトラウマを刺激したアランを非難の目で見るが、彼は唇をへの字に曲げてそっぽを向いている。

「………もう、お金なんて…いい、です。
 いり、ません…から、家に、帰して、下さい。
 こんな所、なんか、もう………いたく、ありません………っ!」

 掠れ声でそう言い切ったリーファを見下ろして、ヘルムートは大きく溜息を吐いた。
 レース付きのシルクのハンカチを差し出してリーファに涙を拭かせるが、噴出した感情はなかなか静まらないようだ。

「そうは言っても…困ったなあ。この間、君は正式に側女として名簿に登録しちゃったんだよね」
「…?!」

 余裕の笑みを見せていたアランが、顔を歪ませ声を上げそうになった。
 何とか踏みとどまった彼は、犬歯をむき出しにしてヘルムートを睨みつけてきた。

「ヘルムート…お前…!」
「ん?何怒ってんのアラン。
 君がなかなか登録をしようとしないから、僕が代わりにやっておいただけなんだけど?
 リーファをここに置いてどれだけ経つと思ってるんだ。
 先王救って王家の呪いまで解いた側女を、いつまでも仮扱いできるわけがないだろう?
 書陵部から文句言われる僕の身にもなってよね」
「………………………」

 アランの鋭い視線に真っ向からヘルムートが向き合う。

 ヘルムートは怒るわけでも笑うわけでもなく、ただアランを見つめている。

 アランは王で、ヘルムートは王の補佐という立場である。
 一応先王の血を引く異母兄弟で、ヘルムートの方が年上ではあるが、そこはそれ。
 本来ならヘルムートはアランに意見する事など許されない───のだが。

「…ふん」

 アランは早々にヘルムートから視線を外し、子供のようにそっぽを向いて押し黙ってしまった。