小説
小さな災厄の来訪
 次の議会で挙げる制服の候補は、何だかんだで決定した。

 リーファとシェリーを下がらせて幾ばくかした頃、ヘルムートはテーブルの書類を本棚に片付けながら執務机にいるアランに声をかけた。

「それにしても、やっと君も後継者作りに専念してくれる気になったんだねえ。
 長かったような、短かったような」
「何の事だ?」
「僕を前にとぼける気かい?」

 にやにや笑うヘルムートをちらりと見て、アランは不機嫌に鼻で笑う。

「…盗み聞きが趣味とはな」
「僕だって、聞きたくて聞いてるわけじゃないさ。でも何で急にその気になったのかなって」
「別に。せがまれたから抱いてやっただけだ」

 そう言って、アランはミルクと砂糖入りのコーヒーに口をつけた。

 ───アランが側女であるリーファと子作りを始めたという話は、初夜を迎えた次の日から城中の者に伝わっていた。
 何度も見合いをしているのに一向に正妃を決めない事や、リーファと半年以上も音沙汰がなかった事もあり、この話は色んな者達に衝撃を与えたようだ。

 あるメイドは安堵に涙し、ある大臣は見合いの準備を進め、ある兵士は胸を撫で下ろしたらしい。兵士に何の関係があるのかはちょっとよく分からない。

 いずれにしても、『王がようやく世継ぎの問題に前向きになってくれた』と、周りに思わせるには十分すぎる成果と言えた───

「…ふうん。そんなもん?」

 含みを持たせて肩を竦めるヘルムートに、アランは眉間にしわを寄せてぼやいた。

「言いたい事があるならさっさと言え」
「いやなに、今までもそこそこアピールはあったと思ったからさ。やれば出来るんだって」
「人間飢えれば雑草だって食むものだ」
「そこまで言わなくてもいいのに。っていうか飢えてたんだ」
「………………………………………。
 あの女に泣かれたからな。仕方なくだ」
「あの女?」

 その言い方に首を傾げかけたヘルムートだったが、泣かれたというのならリーファ以外に思い浮かばなかった。

 どういう訳か、アランはリーファの事を『あれ』や『これ』と呼ぶ癖がある。
 ヘルムートが覚えている限り、名前を呼んでいる所を聞いたのは、ここ半年ちょっとの間に両手で数えられた程度だ。

「いい加減名前で呼んであげなよ。
 で、リーファが泣いたって、いつもの事じゃないの?」
「私の予想だにしない反応をした、という話だ」
「何をしたのさ」
「私が死んだら、大亡霊になって喰らってやると」

 なんて事はない、他愛のない痴話だ。
 いつもアランが困らせているから、リーファがいちいち過剰反応している。それだけだった。

 ヘルムートは何だか部屋の中が蒸し暑く感じた。馬鹿馬鹿しい話を聞いたからだろうか。

「ああうん。怖いねー。僕、泣いちゃうかもー」
「適当な事を言うな。そういう類の…泣き方ではなかったのだ。気味が、悪い」

 アランを見ると、心底嫌そうな顔をしている。同じく暑いと感じたのだろうか。手の甲で額の汗を拭っていた。

「だったら、本人に、聞いてみたら…いいじゃないか…」
「それが、あれにも、分からない、と」
「それじゃ…僕にも、分かんないね。
 ………………ところで、さ」
「…なんだ」
「すごく、ぼうっとするんだけど…何、これ…」
「奇遇、だな…私も、だ。気持ち、悪い…」

 腕の中に収めていた本が何冊か落ちた。本棚を支えに屈んで本を取ろうとするが、指に力が入らない。その内、腕の中の書類も盛大に撒き散らした。

 自分の異変もさることながら、アランの様子もおかしかった。顔は真っ青にして俯き、カップは執務机に倒れ、ほんの少し残っていた榛色の液体を零している。

「おかしい、ね…何か、当たるモノでも、食べたっけ…?」
「知るか…!」

 荒げたその声も、アランにしては弱弱しい。

「…空気が…悪い、のかな…?戸…戸を、開けた方が───」

 少しでも何かしないと気がおかしくなりそうだ。ヘルムートが本棚を伝ってベランダへ向かおうとした時。

 ───コンコン。

 執務室の扉がおもむろにノックされた。

 ヘルムートはアランと顔を見合わせて、扉の方を見やる。

(おやつの準備に行かせてる、リーファかシェリー、かな…)

 そんな事を考えたが、扉の先から聞えてきたのは、聞き覚えのある少年兵の声だった。

「へいかに、おきゃくさまが、いらしてます…」

 どこかぼんやりとした声音が癪に障ったのか、苛立ちながらアランが吠える。

「気分が悪い…後にしろ…!」
「そういう訳にもいかないのよね」

 少年兵のものとは違う、女性の、しかしリーファでもシェリーでもない少女のような声が返事をした。
 そしてカチャンと音を立て、扉はいきなり開かれる。

 そこにいたのは、何故か大量の荷物を抱えた少年兵と、見慣れない旅装姿の少女だった。

「「…?!」」

 少年兵はよく知っているが、少女は見た事が無い。
 肩まで伸びた金色の髪に、紅色の双眸を持つ、どこか貴族然としたあどけない風体の娘だが、その口元はふてぶてしい笑みを浮かべている。

 扉の先には鎧の鉄靴が横たわっていた。恐らく執務室の前に常駐している衛兵か。

「し、しんにゅう、しゃ…?」

 ヘルムートは警戒の色を濃くしたが、体がついていけない。動悸が激しくなり、目眩が酷くなる。ついには座り込んで本棚にもたれかかってしまった。

 がちゃがちゃんっ

 役目を終えた少年兵は少女に押しのけられ、荷物を廊下に撒き散らしつつ扉の前で倒れてしまう。

 どことなく品のある歩き方で執務室に入って来た少女は、一歩歩くごとにその姿が変化していった。

 金色の髪は漆黒に染まり、旅装は露出の激しいタイトな黒装束に姿を変える。大きな紅色の瞳はそのままに、腰の後ろからするりと細長い尻尾が生え、最後に闇色の皮翼が広がった。
 魔物の姿に変じた少女は、恭しく、しかし小ばかにしたような大仰な仕草でお辞儀をしてみせた。

「お初にお目にかかります。陛下」
「なに、者だ…!」
「まあ、人間じゃないのは見て分かるよね?」

 アランは椅子から動こうともがくが、腰が上がらないらしい。

 ヘルムートはもはや起きる気力すらなく、力なく少女を見上げるしかない。

「小さい国だとは聞いてたけど、ここまでとはねー。
 魔物の領土に隣接してる地域なのに、半人前のサキュバス一匹に懐まで入られるのは、さすがにどうなのかなぁ」

 どこか楽しそうに、しかし呆れ混じりに部屋の中を見回しながら、少女は腰に帯びた双剣を引き抜いた。ぺろりと唇を舐め、アランの首元に添える。

「別にあなたの首が欲しいんじゃないの。ちょっと聞きたい事があってね。
 衛兵さんがなかなか教えてくれないんだもん。だったら、一番エライ人に聞くのが筋───」
「ノア君?!い、一体何が───」

 女性の声に、アランと少女が入り口の方を見やる。どうやらリーファが駆けつけてきたらしい。

「リーファ…ダメだ。に、逃げ、て…!」

 彼女が来てもこの状況はどうにもなるまい。ヘルムートはそう判断して廊下に声を上げたが、リーファは執務室に入ってきてしまった。
 リーファは魔物の少女をしばらく凝視し───素っ頓狂な声を上げた。

「リャナ様?!」
「え、あれ?お姉さん、何であたしの名前知って───、え?」

 リャナと呼ばれた魔物の少女は、ほんの少しまじまじとリーファを眺めて。

「あーーーーーーっ!その声リーファさん!リーファさんだー!!」

 そう叫んで、魔物の少女は双剣を放り出し、リーファに飛びついた。

「え、あ、きゃ、───うぎゃ!?」

 飛びつかれた拍子に転がっていた少年兵につまづき、情けない悲鳴を上げてリーファがすっ転んだ。

 魔物の少女は、お構いなしにリーファの胸に頬ずりをしている。

「やっと会えた〜、もう。何かあったかと思って心配したんだから〜」
「リャナ様こそ、なんでこんな所に…」
「あー、ダメだよリーファさん!様付け禁止ー。
 っていうかこの体なに?あっ、この間言ってた人間の体の方?わー、意外とカワイー。
 わ、おっぱいあんまり大きくないね。
 でも、グリムリーパーはナイスバディだったから、むしろ一人で二度美味しいみたいな?
 でもお肌すべすべー。足ほそーい」
「いや、あの、えと、その、だ、ダメですこんなトコじゃ…!」

 魔物の少女は興味津々な様子で馬乗りになり、リーファの体をぺたぺた触っている。
 小柄な魔物だが、力は強いのかもしれない。リーファは足をばたつかせているが、まともに抵抗出来ていないようだ。

 気がつけば、ヘルムートの不調は大分楽になっていた。
 熱っぽさも気だるさも治まっている。体を起こすのは少々辛いが、頑張れば出来なくもない。

 アランにも同じ事が言えたようで、無理矢理体を引きずって部屋を出ようとしていた。

「おい…何なんだ、その小娘は…!」

 怨嗟すら籠った声でアランに問い詰められたリーファは、あわあわしながら体を起こし、座り込んだまま答えた。

「あ、あの…この方、リャナさ…リャナ、と言う方でして。
 …その………………………魔王様の、娘さんです…」
「どうもー」

 肩を落とし申し訳なさそうにしているリーファとは対照的に、リャナと呼ばれた少女は愛想の良い笑みを浮かべて手を振ってきた。

 ◇◇◇

 ラッフレナンド城内がにわかに慌しい。
 ここ一時間の間に、原因不明の不調を訴えた者達が相次ぎ、薬剤所や医務所が賑やかになっている為だ。

 不調の内容も様々だ。
 熱っぽい、体がだるい、気持ち悪い、幻を見た、殴られたような痛みがある、などなど。

 しかしこれと言った原因は分からず、またそう訴えた者達も徐々に復調した為、医者も看護師達も首を傾げる他なかったようだ。