小説
小さな災厄の来訪
 診療所で日雇いの仕事を始めて四日。つまり城から追い出されて十日程経った頃。
 リーファは日の出と共に目を覚ました。

 手早く着替え、共同井戸から必要な分の水を汲んできて家の水がめに入れ、お湯を沸かし、合間に顔をすすぎ、買っておいたパンを切り分け、ハムエッグを作り、沸いたお湯で紅茶を淹れる。

 ───コンコン。

 概ねいつも通りの朝を迎えていると、いつも通りの朝ではない音が鳴った。家のドアをノックする音だ。

 ドアを開けると、プラチナブロンドのポニーテールと碧眼の美貌をたたえた、城のメイド長シェリーが立っていた。
 その表情はやや暗く、折角の美人なのにもったいない、と思ってしまう。

「シェリーさん」
「ご無沙汰しております。リーファ様。
 朝早く申し訳ありません。お時間よろしいですか?」
「ど、どうぞ」

 突然の訪問に戸惑いながらも、リーファはスリッパを床に敷いてシェリーを中へと招いた。

「えっと、マントはこちらのハンガーへ」
「恐れ入ります」

 フード付きマントを預かりハンガーラックにかけ、シェリーをダイニングテーブルの椅子へと座らせる。

(気が、緩んでた…!)

 城にいた頃はゆったりと過ごしていたような気がするが、それでも家にいる今の方がずっと弛んでいたのだと気付かされる。

 とにかく慌てず迅速に、来客に応対するよう支度を進めていく。
 ダイニングテーブルに置きっぱなしだった朝食用トレイをキッチンの作業台へ移し、紅茶を淹れ直す。湯は多めに沸かしておいたから、すぐに出せそうだ。

 しばらく使っていなかった来客用のティーカップを戸棚から出し、二つのカップに紅茶を注ぐと、昨日作っておいたアイスボックスクッキーと一緒にダイニングテーブルへ持って行った。

「リーファ様がどうお過ごしか心配しておりましたが…お元気そうで安心致しました」
「ヘルムート様に援助頂いて、おかげ様で楽に過ごさせてもらってます。
 さすがにお世話になりっぱなしなのもどうかと思って、診療所で日雇いのお仕事をしてるんですよ」
「まあ、そうでしたか」

 支度している光景を眺めていたシェリーは、リーファが席につくと同時に嫋やかな笑みを浮かべた。
 優雅な仕草で紅茶とクッキーに舌鼓を打つと、ほっと顔を緩ませる。

「ああ、リーファ様のクッキー。懐かしいですね。
 お持ちすると陛下は全部食べてしまいますから、よく執務室に持ち込む前につまみましたね」
「そうでしたっけね。
 ケーキとかも、一つを切り分けるとバレてしまいますから、二つ作ってこっそり食べましたよね」

 ふふ、と笑って、リーファも紅茶に口をつける。

「お城の皆さんは何事もなくお過ごしですか?」

 リーファの問いかけに、シェリーのクッキーに伸ばす手が止まる。

「…あの?」

 その様子を見てリーファは怪訝な顔をした。こんな彼女は見た事がない。

「…ヘルムート様は、わたしがリーファ様のもとへ出向く事をお命じにはならなかったのですが…。
 このままではどうにもならないと思い、馳せ参じました。
 もうどうしたら良いか分からなくて…」

 目を伏せ珍しく弱気なシェリーを見て、リーファはおろおろする。

「…何があったんですか?」

 少しの間、朝の喧騒も聞こえないほどの静寂が訪れて───おもむろにシェリーが口を開いた。

「リーファ様がご実家へ戻られて二、三日の間、陛下は機嫌は悪くともお仕事はこなされておりました。
 しかし、そのうち陛下が不調を訴えるようになったのです。
『声が聞こえる』、と」
「声、ですか?」
「ええ。そしてその声はわたし達にも聞こえるのですが、どうやら陛下から発せられているようなのです。
 しかし、陛下には心当たりがない、と」
「え、ええと。ちょっと待って下さい。
 陛下の意思とは関係ない声が、陛下から聞こえるんですね?」

 シェリーは小さく頷く。

「その考え方で合っています。声も、陛下のお声でした。
 しかしその声が発せられている間、陛下の唇は動かないのです。
 内容は、『さびしい…』とか、『ききたい…』とか、『まだか…』とか、悲壮感の籠ったもので。
 気味が悪いのもそうですが、陛下が気になさるあまりあまり寝ていないようで。
 よく眠れるよう、薬を処方したり香を焚くなどしているのですが、声の方の解決は出来ていないのです」

 はぁ、と小さくシェリーから溜息が漏れる。

(声が聞こえる…か…)

 アランの耳だけにその声が聞こえるのなら、いわゆる精神的ストレスによる幻聴の類と片付けられるのだろうが、シェリー達の耳にも届いているのであれば、それは他の何かだ。

「…なるほど。話は大体分かりました。
 見ていないので何とも言えないのですけど、幽霊の類か、魔術の類か…いずれかなのかなと思います。
 …先日色々出掛けましたから、どこからか貰ってしまったのかもしれません。
 お城へ行けば、何か分かるかもしれませんが…」
「ええ。陛下のあのご様子だと、入城の許可はまだ降りないでしょう。
 変なところで意固地なものですから。
 ヘルムート様も陛下に働きかけておりますが、なかなかうんと言ってもらえていないようです」
「…それなら、勝手に入るしかないですね」
「え?」

 目を伏せていたシェリーが顔を上げた。

 リーファはにっこり笑ってみせて、クッキーをひとかじりする。

「ちょっと心当たりがあるので、今夜お城にお邪魔します。
 ああ、特に何もしないでいいですよ。皆が寝静まった頃に勝手に入って、勝手に調べますから。
 むしろ陛下には何も言わないで下さい。警戒されても嫌なので。
 見つかったらぱっと逃げますから大丈夫です」

 リーファの表情から自信のようなものが感じ取れたのか、シェリーが少しほっとしたような表情を見せた。
 そして、ほんの少し考える仕草をして見せて、全く関係ない事を呟いた。

「…グリムリーパーって、スパイ活動に便利そうな種族ですのね…。
 リーファ様ではなくても、お城にもう一人、諜報役として欲しいものですわ…」
「アクが強い人達ばかりなんで、隠密には向かないと思うんですけどね。
 特にグリムリーパーの王様は困った方で、先日は陛下を何かと困らせていましたし」
「その話詳しくお願いします」

 食い気味に寄ってきたシェリーを見て、リーファはクスクス笑った。