小説
小さな災厄の来訪
 再びテーブルを見下ろせば、何の変哲もない一振りの剣が置かれているだけだ。
 サイスを引っ込めたリーファはゆっくり剣を抱え、再び壁に立てかけた。

「さあ、これでいいでしょう。もう夜毎悩まなくていいですよ」
「…本当、か?」

 恐る恐る声を発したアランだが、その後に続いていた幻聴は聞こえなくなっている。

 問題からようやく解放されたアランは、はー、と大きく溜息を吐き、どさっと音を立ててソファに座り込んだ。

「なんだったのだ。あれは」
「剣に呪いがついていたんですね。
 刃の方には風の力が付与されてましたが、あの飾り物には幻聴が聞こえる呪いが付与されていたみたいです。
 普通なら剣を持っている時だけ作用するんでしょうけど、専用装備化した事で、陛下との繋がりが強くなってしまい、どこにいても陛下に影響するようになってしまったようです」
「厄介な物をつかまされた、という事か」
「…そもそも、あの剣はどこで手に入れたものだったんです?」

 肝心な問いかけに、「う」と呻き声が漏れる。
 かなり躊躇って、苦々しくアランが口を開いた。

「魔王から、貰った」
「まあ。何故」
「お前が席を外している間に、魔王と話をする機会があって…。
 何故だか気に入られ、宝物庫にあった剣を一振り、餞別として贈られた。
 好きな意匠のものをどれでも良いから、と言われて。
 専用装備化とやらも、その時にされたはずだ。血で文字を刻んで…とかさせられたからな」
「ああー、それで…」

 リーファは合点がいって、改めて剣を見上げた。

「…なんだ」
「私があちらの技術棟で呪い外しの手伝いをしていた時、最後の方で少しトラブルがあったらしくて。
 以前製品化したものの一部で、呪いが外れていないものがあったとかで、ロット確認をしろだとかと騒いでいたんです。
 もしかしたらこれも、チェックから外れた品だったのかもしれません」
「…ち、はた迷惑な」

 舌打ちするアランを見て、リーファは失笑した。
 魔王が良かれと思って剣を贈ったかどうかは分からないが、結果的にアランを困らせてしまったと考えると、何とも”魔王”らしい贈り物と言えた。

「何はともあれ、これでもう大丈夫ですから、安心して下さい。
 私も用は済みましたので、失礼します。それでは、ごゆっくり」

 ぺこりと頭を下げ踵を返したところで、アランがリーファの腕を掴んだ。

「ここにいろ」

 ぐい、と引っ張られて後ろにつんのめりそうになって、リーファはアランの方を向く。

「え。いえ、私家に帰りますので」
「黙れ命令だ」
「しかし」
「リーファ」

 名前を呼ばれ、リーファの身が震えた。

 アランはリーファの腕を掴んだまま離さない。それをリーファは引っ張って振りほどこうとするが、上手く力が入らない。

(っていうか、私なんで振りほどこうとしてるの?)

 非実体化し、アランの手からすり抜ける事はとても簡単だ。簡単なはずなのに、どういう訳か体がうまく動かない。

「私が寝るまでいろ」
 ───いかないで。

 さっきの幻聴が聞こえた気がした。

 執務室は照明が灯されていない為、アランの表情はほとんど見えない。
 だから何を考えているのかさっぱり分からないが。
 ずっと腕を掴んで離さないアランの手を見て、リーファは何故だか根負けしてしまった。

「…私、本当はここにいちゃダメなんですけど………もう、仕方がないですね。
 それではさっきの部屋へ戻りましょう。確か、本も置いたままでしたし。
 ああでも、ちゃんと湯も浴びてからの方がいいですよね。髪をすすいで歯も磨いて。
 さっぱりしてから香を焚いた部屋で本の読み聞かせをすれば、すぐに寝られるでしょうから」
「…ああ」

 逃げないと分かると、アランは腕を離し、小さく頷いて席を立つ。

 ふたりは執務室を出て、いつもよりも物静かな北の廊下を歩いて行った。

 ◇◇◇

 リーファと一緒に執務室を出た直後、アランが南へ繋がる廊下に顔を向けると、見慣れたふたつの人影が見えた。ヘルムートとシェリーだった。

 ふたりの姿を認めて、アランはようやく彼女がここへ来た理由を理解した。どちらかが彼女にアランの状況を伝えたのだろう。
 2階と3階の人払いも、兵士と鉢合わせしてややこしい事にならないようにと考えたのかもしれない。

(ご苦労な事だ)

 動かない人影を見なかった事にして、北の廊下を歩いて行くリーファの背を追い、アランも歩き出す。
 いるはずもない兵士に見つからないよう、周囲を見回しながら歩いて行く彼女を見ていると、先の立ち振る舞いが別人のように思えてしまう。

(あんな風に、私も送られるのか…)

 執務室での出来事を思い出す。

 手に乗せた魂のようなものをいとおしむように送る姿は、神聖で慈愛に満ちていた。
 ”救済”という言葉に相応しく、神に祈りを捧げる修道女のように清らかな儀式だと感じさせられた。
 なのに。
 どういう訳か、その姿に淫靡な雰囲気を見出してしまった。

 そして想像してしまう。
 いつかアランの魂が、戯れに触れられ、弄ぶようにつままれ、潤んだ唇でキスを落とされ。
 濡れた舌にいやらしく舐めとられて送られると思うと───

(…ぞっとするな)

 これは恐怖だと言わざるを得ない。
 今、自分の手が震えているのは、あの女を恐れているのだと実感出来る。
 しかし。

(何故私は、笑っているのだろうな…?)

 自分でもよく分からない感情が押し寄せてきている。
 情緒がぐちゃぐちゃで、勢いに任せて目の前の女を押し倒してしまいそうだ。

 兵士との鉢合わせを心配している彼女は、どう反応するだろうか。
 声を上げるのを堪えて、アランの戯れに耐え続けるか。
 怒り散らしてその場から立ち去ってしまうか。

(…馬鹿な事を考える)

 緩む口元を手で隠して、アランは階段を上がろうとしている彼女を追いかけた。
 出来もしない妄想は、理性の器に封じ込めた。