小説
偽り続けた者の結末
 たっぷりと七時間使った講義は無事終了し、リーファは来客用の寝室へ戻ってきていた。夕食はこれからだ。

 講義用に貰っていたノートは、気が付けばまるまる一冊書き込んでいたらしい。最後の方は、裏表紙にも書き込む羽目になっていた。
 授業をしていたゲルルフはノートを見て大喜びしていたが、後で見返す為に書き直すべきか検討中だ。

「失礼するよ」

 ノックもそこそこに入ってきたのはヘルムートだ。
 リーファはソファから起き上がり、お辞儀をしてみせる。

「お勉強会お疲れ様。デルプフェルトに付き合うの大変だったでしょ?」
「そんな事ないですよ。分かりやすく説明してもらって楽しかったです。
 まあ強いて言えば………ずっと座りっぱなしだったので、お尻が痛くて困りましたけど」

 と、苦笑いを浮かべてリーファは尻をさする。会議室の椅子はクッション付きの上等なものだが、さすがに長時間座っていると負担はかかるものだ。

 リーファのそれを見て、ヘルムートは人当たりの良い笑みを零した。

「そっか。それは大変だったね。
 そうそう。さっき彼に会ったけど、『勉強熱心な良い生徒だった』と喜んでいたよ」
「そうでしたか。そう言っていただけて何よりです。
 …ところで、今日のご用は?」
「ああうん。今日の夕食は自由行動だったと思ってね。
 どうせ一人で食べるつもりだったろう?
 一緒に行かないかなと思ったんだけど───」

 ───カチャン。

 そこまでヘルムートが言ったところで、いきなり部屋の扉が開かれた。

 ヘルムートと一緒に扉の先へと視線を動かすと、アランがげっそりした顔で立ち尽くしている。目の下にくまを作り、指先はぷるぷると震え、足元も覚束ないようだ。

 にっこりと、しかしどこか意地悪そうにヘルムートは訊ねた。

「ああ、アラン。仕事終わった?」
「今…終わった」
「早かったね、えらいえらい。
 じゃあもう明日明後日の仕事はないよ。ゆっくりしていいからね」
「…ああ」

 扉を閉め、ふらりふらりとアランは部屋に入ってきて、派手な音を立ててソファに座り込んだ。

 震える指でリーファを手招くので、近づいてみる。力なく手を伸ばして来るので、リーファは向かい合うようにソファに膝をかけ、アランにまたがる。

 アランは服越しにリーファの胸に顔を埋め、しばらくぐりぐりとこすりつけてきた。手はリーファの大腿を撫でまわしているが、指先が震えて動きがぎこちない。

 その光景を眺めていたヘルムートが苦笑した。

「今日一日で三日分の仕事をしたから。相当疲れたみたいだね」
「み、三日ですか………それは頑張りましたね…」

 何だか気の毒に思って、労わるようにアランのふわふわの髪を撫でるが。

(あ、そうだ)

 ふと思いついて、顔の下のアランに声をかけた。

「陛下」
「うるさい…」
「それだと服でお顔を痛めてしまいます。ちょっと失礼を」

 アランのぼやきを無視して、リーファは首元のスカーフを外し、藍色のワンピースの前ホックと白いブラウスのボタンを外した。最後に後ろに手を回して、ブラジャーのホックを服越しに外し、痣や歯形だらけの胸元をほんの少しだけ露わにする。

「はい、どうぞ」

 両手を前へ出して手招くと、憔悴したアランが胸の谷間に吸い込まれていった。深呼吸を何度もして、顔を摺り寄せる。

 目を丸くしてその一部始終を見ていたヘルムートが、神妙な顔つきで訊ねる。

「…なんていうか、大胆な事するんだね。ちょっと意外」
「なんか、『柔らかいものを触っているとリラックス効果がある』と、以前本で読んだ事があって。
 ちょっとやってみたかったんですよね。ほら、私の体だとアラン様に満足してもらえませんし」
「へえ。アランを満足させたいとは思ってたんだ」
「いつも愚痴を零されてましたから。
『胸が小さい』だの『色気がない』だの、『この間の見合い相手の体は良かった』だの。
 だからちょっとは見返してやりたい、って思ってたんですよね。グリムリーパーの体ならいけるんじゃないかな、って」

 恥じらいもへったくれもなく、ちょっと誇らしげにすら言ってみせるリーファを見て、ヘルムートは呆れた様子で笑う。

「やきもち…じゃないんだねえ。どっちかというと、対抗心かな」
「ふふ、そんな所です」

 いつもなら不満の一つも零すアランだが、二人の会話に全く反応してこない。リーファの胸の内から動こうとしない。

 そんなアランの状況を嘆かわしく見下ろしながら、ヘルムートはリーファに告げた。

「…なんか動けそうにないし、食堂で適当に見繕って持ってこようか?アランの分も一緒に」
「そうですね。こちらで頂きます。ヘルムート様もご一緒に…」
「いや、僕は食堂で一人で食べるよ。
 なんかこう…邪魔しちゃいけないような気がする」
「はあ…今更という気もしますけど…ヘルムート様がそうおっしゃるのなら…」
「メイド達に持ってこさせるから、それまでにアランを落ち着かせておいてね」
「はい」

 小さく頷くと、ヘルムートは軽く手を振って部屋を出て行った。

 ヘルムートの足音が廊下の先に消えて、部屋で二人だけになって。
 しばらくふわふわの金髪を撫でていると、ようやくアランが口を開いた。顔が埋もれて、表情は分からない。

「リーファ」
「今はセアラですよ。陛下」
「どっちでもいい」
「はい」
「ペンの使い過ぎで指が動かん。
 …食事は、お前が食わせろ」
「はい、分かりました。お手伝いしますね」

 特に文句も言わずに応じると、アランはそれきり黙り込んでしまった。機嫌が悪いのではなく、疲れているのだろう。

(こうして落ち着くのも久しぶりね…)

 アランの頭を撫でながら、時間だけがゆったり過ぎて行くのを感じ入る。

 マルセルの修羅場に巻き込まれている時も、馬車でラッフレナンドに向かう時も、気は休まらなかった。もうちょっと言えば、マルセルに連れ去られる前は編み物に夢中で、ある意味忙しかったとも言えた。

 問題が山積している中、何も出来ないというのは歯痒いものだが、”果報は寝て待て”という言葉もある。
 名前を変えて休暇を貰えたと思えば、この数日間を穏やかに過ごすのもそう悪いものではないかもしれない。

 気持ちが軽くなると、口数も増えてしまうものなのだろうか。唐突に思い付き、リーファはアランに訊ねた。

「───ところで陛下。今の私は何点ですか?」
「…?」

 谷間に埋もれたアランが怪訝な顔をしたのが肌の感覚で分かる。もそ、と動いてアランのきりっとした眉毛が見えた。恐らくリーファの顔を見たいのだろうが、顔を上げる気力はないのかもしれない。

 急な質問だったが、だいぶ時間をかけてアランは口を動かした。

「………………………零点だ」

 返ってきた答えはなんとなく分かっていた事だ。
 アランの性格上、リーファの評価は”零点”から上がる事はないだろう。『ちょっと良い点をあげて満足してくれるな』という意味だ。
 しかし、ここまでやって”零点”はちょっと悔しい。

「評価が厳しいですねえ。では良い点数を貰えるまで、頑張りましょうか。
 髪を洗って梳いて、体を濯いで差し上げて、着替えもして、歯をちゃんと磨いて、本を読みましょう。
 夜のお世話は…今日はお疲れのようなので次の機会にしましょうね」
「…ああ」

 素直に応じるアランがあまりにも可愛く見えて、リーファは頭を撫でながらクスクス笑った。

「なんだか介護をしている気分ですねえ。それとも育児でしょうか?」
「………そういうところだと言うに」

 アランは不貞腐れたように、少し乱暴に胸の内を動き回った。