小説
刻まれたその名は
 それから一週間も過ぎると、リーファの体に少しずつ変化が表れた。

 まず、つわり。食べると気持ち悪くなってしまい、吐き戻す事が増えてきた。
 匂いにも敏感になったのか、食堂から漂うあらゆる匂いが辛くなってしまった。控えめだと思っていたパンの匂いですら、えずく事になるとは思わなかった。

 お腹は鳴るが口に含めば戻してしまうので、喉の渇きを癒す為に白湯をまめに飲み、食事も消化に良さそうなものを少しずつ側女の部屋で摂取する事になってしまった。

 食事が満足に取れないものだから、当然体にも力が入らない。

 特に用事もなければ極力部屋を出ないようにして、ここ二日ばかりは執務室にも行っていない。
 そこそこ酷い顔をしているらしく、シェリーやヘルムートは勿論、アランですら戸惑った様子を見せるものだから、人に会うのが実に億劫だ。

 そして、ここしばらくのリーファの不調は当初は隠されていたものの、身近ではなかった人達から噂として伝播し、あっという間に城内へ広がっていった。

 昨日、会議でその話題が挙がってしまった為、アランは観念してリーファの懐妊を報告したという。

 ◇◇◇

 側女の部屋のソファでボロ雑巾のように横たわり、リーファは溜息と共に思う。

(女の人って強いな…)

 世の女性は、こんな辛い思いをして出産まで待つのかと。
 今の状態ですら十分きついのに、一般家庭の女性なら掃除・洗濯・炊事をこなさなければならない。仕事に出ている人もいるだろう。
 横になっていられるだけ自分は恵まれているはずだ───と、つい考えてしまう。

 そしてこの辛い期間を乗り越えた後にも、出産という一大イベントがあるのかと。
 その後も子育てが続き、事によっては次の妊娠をしてしまうのかと。先を考えただけでぞっとする。

 子供が四人もいて仕事もしている人生の大先輩エリナは、『なあに、すぐに慣れるよ』と笑っていたが、人によっては出産までこの状況が続くと言うし。

 明日とは言わずとも、出来れば一ヶ月後のアランの見合いまでには落ち着いて欲しいものだ。

 ───コン、コン。

「どうぞ…」

 と力無く声をかけると、

「おじゃましまーす」

 と快活な挨拶と共にリャナが入室してきた。後ろにアランとヘルムートもついて来ている。

(…そういえば…頼んでいた物が来る頃合いだったっけ…)

 回らない頭で何とか思い出し、リーファはゆっくりと体を起こした。

 余程辛そうに見えたらしい。アランが目を細めて渋い顔をした。

「ベッドで寝ていればいいだろうが」
「少し、横になっていただけですから…」

 精一杯笑顔を向けたつもりだったが、アランはそんなリーファを見て溜息を零している。

 そんな中、リャナは人懐っこい子犬のようにリーファに近づいて来た。ふんふん、と鼻を胸元に擦りつけ、紅色の目をぱちくりさせている。

「あ、分かる。リーファさん、本当に妊娠してるんだー」
「ご、ごめんなさい。さっき少し吐いたので、その匂いかも…」

 先程トイレで吐いた際に、吐瀉物の飛沫が服にかかっていたのかもしれない。リャナの指摘に、リーファは口元を押さえて恥じ入った。

 しかしリャナは、首を横に振ってそれを否定する。

「ううん違うの。サキュバスは、妊娠してる女の人のにおいが分かるんだ。
 女の人って果物みたいなあまーいにおいがするんだけど、妊娠してる人は別のにおいになるんだ。
 なんていうか…うすいっていうか、さっぱりっていうか、すっきりっていうか…」

 リーファは、はあ、と感嘆の吐息を零した。人の感情を目で読み取ったり、匂いで妊娠の有無を知ったり、サキュバスの特性は不思議なものばかりだ。
 もっとも、グリムリーパーにもよく分からない体の仕組みがあるから、人の事は言えないのだが。

「…もしかして、リャナから見て美味しくないんでしょうか?今の私って…」
「そうかも?
 男の人は割と変わらないんだけど、女の人は一ヶ月のサイクルで、コロコロ匂いの強さが変わるんだよねー」
「ああ、生理周期が関係してるんですね…。
 妊娠しやすいタイミングを、匂いで感知していると…」

 リャナの話に、リーファは何となく合点がいった。

 サキュバスと対になっている男性型の夢魔インキュバスは、女性を襲い妊娠させる力を持っている。
 恐らく、妊娠しやすい時期の女性を匂いで感知して、寝込みを襲っている、という事なのだろう。

「…小娘。無駄話はいいからお前の仕事をしろ」
「ええー、いいじゃんケチー」

 リーファの隣に座ってきたアランの文句に、リャナが口を尖らせた。見れば、ヘルムートは向かいのソファに腰を下ろしている。

 リャナはちょっと不満そうに、背負っていたリュックサックを床に降ろした。注文をしていたチューブタイプの塗り薬をリーファに手渡してくる。

「リーファさんは、グリムリーパー用の傷薬だったよね。こちらになりマス」
「ありがとう。こんな状態だし、当分は使わないでしょうけど、取っておきますね」
「それと王様が、リーファさんが欲しいものを何でも買ってくれるってさ」

 リャナからの唐突な提案に、リーファは目をぱちくりさせた。カタログも押し付けられてしまい、受け取りつつアランに顔を向ける。

 アランの目は笑っていないが、口の端を少し吊り上げてリーファを見返している。何となくだが、リャナに提案されてその流れになったように感じられた。