小説
刻まれたその名は
 アランのお見合い、三日目午前。

 四人目の正妃候補ウッラ=ブリット=タールクヴィストは、ビザロの町を取り纏めているデルプフェルト家の親戚で、タールクヴィスト男爵の次女だ。
 赤褐色の髪とコバルトグリーンの瞳を持つ、二十一歳の女性───とプロフィールには記されている。

 記されている、と表現したのは、彼女の容姿が分からなくなる程、黒いもやが立ち込めてしまっていたからだ。
 候補同士の小競り合いは評価に含めない、と決意したものの、心の奥ではわだかまりが残っている、という事なのだろう。
 おかげで彼女が纏っている独特な香りすら、異臭にしか感じない。

「陛下?何やらお辛そうですが…お体が優れませんか?」

 ウッラ=ブリットは心配そうに体を寄せてくる。
 顔はともかく、腕に持たれるウッラ=ブリットは女性らしい体つきである事を教えてくれるが、そこを満喫出来るほどの余裕はあまりない。

「ああ、ウッラ=ブリット。ここ数日、あまり眠れていなくてね。
 貴女方の明日を決める事だから、些か気を回しすぎているのかもしれない」

 黒いもやの端で、ウッラ=ブリットは真っ赤な口紅を美しく吊り上げる。

「ふふ、あまり気負いなさるものではないかと思いますわ。
 一目惚れというもので一緒になった男女は、交際が長続きするという話を耳にした事がありますの。
 きっと自分に最も相応しい相手を、心が理解しているという事なのでしょう」

 そして彼女はアランの前に立ちふさがり、アランの左手を自身の胸元に添えた。

「どうぞ御心のまま、気持ちに素直になされば良いでしょう。ね?」

 ラメのついたリーフグリーン色のワンピースを着ているが、ランジェリーをつけているにしては弾力がある。もしかしたらつけていないのかもしれない。
 今は公文書館を抜けて中庭へ移動中だ。巡回の兵はそう見られないが、男に自分の体を触らせるなど、人目を引く行動ではある。

(男の誘い方が稚拙だな…)

 娼婦のような仕草に呆れはするが、黒いもやさえなければちゃんと喜んでいたかもしれない。

 アランは右手でウッラ=ブリットの頬を撫でて行き、顎をつまみ上げた。目も鼻も闇色に染まった女に半眼で微笑みかける。

「…あまりそうやって、私を誘うものではないよ。
 ───人目のつかない所に連れ込んでしまいたくなる」
「あら、まあ、ふふ」

 満更でもなさそうにウッラ=ブリットが笑っている。
 しかし、視界の端───北側の通路───から巡回の兵が歩いてきて、アランはやれやれとウッラ=ブリットを解放した。

「しかし残念な事に、我が城に死角など無くてね。何処へ行っても兵が顔を見せる。
 本当に人目を気にしない場所となると…牢獄の拷問部屋くらいしかない」

 自分の背後を横切る巡回兵をつまらなそうに一瞥したウッラ=ブリットは、不満そうに唇を尖らせた。

「それは…さすがに情緒がありませんわ」
「だろう?だから今日の所は、貴女の良さを知るだけに留めておきたいのだよ。
 貴女の更なる魅力を知るのは、それからでも遅くはないだろう?」
「まあ、駆け引きがお上手ですのね」

 上品に笑う彼女を伴って、再び城内の散策を始める。
 北側の通路を説明しながら、アランは先の言葉を思い出した。

(…一目惚れか)

 その言葉から思い浮かんだ姿は、今でも鮮明に思い出せる。

 ───月に照らされた橙の髪は、秋の夕陽にも似て美しく輝いていた。
 瑪瑙色の双眸は感情など無いかのような無機質さを称え、空色の甲冑を纏った死神はそれ自体が芸術であるかのようだった。

 後になってみれば、当の本人は緊張に固まっていただけだと知れて、随分落胆したものだが。
 しかし、あの光景自体は今も時折夢に見る程の幻想であった───

(そう言えば、リーファとはもう丸一日以上顔を合わせていないか…)

 顔を見せず、例のイヤーカフの力であの”声”も抑え込まれているから、気が立っているのかもしれない。

(ああ………会いたい)

 指を絡めてきた候補がまるでリーファであるかのように錯覚してしまい、うっかり手を握り返してしまった。