小説
刻まれたその名は
「何という…っ、何という、愚かな…!」

 正妃候補達が退出した謁見の間に、クレメッティの憤懣やるかたない感情が噴き出している。整っていた髪をぐしゃぐしゃと掻き乱し、先程の紳士然とした姿が見る影もない。

「し、しかし陛下。国の宝とも言える物品を、側女の部屋などへ置いた陛下にも落ち度はあります。
 どうか何卒、正妃候補達への罰はご配慮下さいますよう…」
「何を馬鹿な事を!”死の道を舞う乙女”、エルヴェシウスの壺、カルパンティエ工房の”薔薇机”が傷つけられたのですぞ?!
 彼女達にも厳罰を与えるべきです!」

 大量に汗を掻きながら情状酌量を求めるジェロームに対し、クレメッティは食って掛かっている。貴族第一主義なクレメッティだが、刑罰に対しては貴賤に拘らない所が何とも彼らしい。

(…リーファの事は、ふたりとも無関心なんだけどね…)

 ヘルムートは、階下の言い合いを聞き流しながら渋い顔をした。

 リーファを疑いはすれど、疑いが晴れても謝罪の一つもない。そして彼女の容態など話にも上げない。
 今繰り広げられている議論も、側女の部屋に置いていた調度品の被害に関する事ばかりだ。

 薄情、という訳ではない。昔からこうだった、というだけだ。
 側女が貴族の令嬢であれば、親戚筋から何らかの接点は生まれるが、リーファは庶民で貴族との繋がりはない。
 国に害を及ぼさない限り、彼女に干渉する理由がないのだ。たとえ王の御子を宿していたとしても。
 代わりなど、幾らでもいるのだから。

「…ジェローム=マッキャロル国務大臣、クレメッティ=プイスト司法長官」

 玉座に腰を下ろしたアランから呼びかけられ、言い争っていたジェローム達は揃って我に返った。慌てて階上のアランに向き直り、バツが悪そうにふたりして首を垂れる。

 王を蔑ろにしたふたりを咎める事もなく、アランは淡々と話を続けた。

「尋問には、牢役人二名を参加させる。急ぎ、支度せよ」

 アランからの下命に、ふたりは驚いた様子で顔を見合わせた。

 城の牢役人達は、尋問を得意としている。特に拷問による自白は得手だが、さすがに貴族令嬢達に対して拷問まではさせないはずだ。罪を詳らかにするのが目的だろう。

「「…御意」」

 ジェローム達にも意図は伝わったようで、彼らは逡巡の後に再び首を垂れた。

 ◇◇◇

 重臣達が出て行き静かになった謁見の間で、ヘルムートは大きく溜息を零した。

「…頑張ったね。アラン」
「いや、まだだ。………………これからだ」
「そう、だね」

 やるべき事の多さに、頭が痛くなってくる。
 まずは候補達と側仕えの尋問。
 シェリーから破損品の詳細が届けば、賠償の手続きも必要になってくる。
 裁判を行い罰を執行するまで、時間はかかるはずだ。城内の役人の中には、候補達の親類縁者も多い。彼らが減刑を求めてくる事は、想像に難くない。

 ───キイ、と。

 謁見の間のやり取りが終わったからか、あちらで一区切りがついたのか。広間左側の、医務所に通じる扉が開かれた。
 ヘルムートが見やると、そこから一人の医師が現れる。オロフ=エリクソン医師だった。

「失礼致します」

 扉の前で一礼し、目の前のレッドカーペットへ歩いてくるエリクソンの顔色は悪い。

「…エリクソン医師。リーファの容態は?」

 ヘルムートの問いかけに対し、エリクソンはいつもの間延びした相槌を封印して、消えりそうな声音で事実を報告した。

「側女殿の命に別状はありません。
 ですが───御子様は、諦めて、頂きたく…」

 目を伏せ、黙し、アランは静かに落胆した。
 赤黒く激怒に染まっていた感情は即座に色を失い、悲嘆を示す深い青に塗り替えられていく。
 懐妊を喜んでいた事も、名前付けに悩んでいた事も、”耳”が全て教えてくれていたから、この失意はヘルムートにも痛い程伝わってきた。

(…大失敗だ。
 見合いは全て破談。アランの貴族に対する感情は嫌悪に落ちた。
 側女ばかりを贔屓にする王だと、アランを嘲弄する貴族も出てくるだろう。
 胎の子も失われた今、懐妊する前よりも状況はずっと悪くなってしまった…!)

 最悪の結果に、ヘルムートは悔恨に胸が締め付けられそうになった。
 こんな事になると分かっていれば、リーファの出産を待って見合いを始めるべきだったが、もう取り返しがつかない。

「………そうか、分かった。
 ───引き続き、リーファを頼む」
「…はっ。心血を注ぎます」

 悲嘆の色を纏ったエリクソンが深々と頭を下げると、アランは憂いに沈んだ面持ちで玉座から立ち上がった。マントをはためかせ、上階へ続く階段に顔を向ける。

「行こう」
「…うん」

 今したい事、今してあげたい事以上に、今しなければならない事がある。
 決意を秘めた背中を、ヘルムートはただ追いかける事しか出来なかった。