小説
刻まれたその名は
 ───こん、こん。

 久しぶりに叩いた執務室の扉は、何だかとても頼りない音を立てた。
 それが自分の気後れした感情を表しているかのようで、リーファは独り苦笑いを浮かべてしまう。

「どうぞ」
「…失礼します」

 扉の向こうにいるらしいヘルムートが、すぐに応じてくれる。
 心配そうに顔を向ける衛兵とは顔を合わせず、リーファは執務室へと入って行った。

 しばらくぶりの執務室は、特に変化はないようだった。
 どうやら何かの報告をしていたようで、ヘルムートは執務机の手前に立っていた。その向こうで、アランが机に置いていた書類を引き出しに片付けている。

「やあリーファ。もういいの?調子は」

 普段は愛想の良い笑顔を向けてくるヘルムートが、今日は心配を顔ににじませていた。

 流産してから二週間が経ち、当時に比べればずっと顔色は良くなっているはずなのだが、それでも普段の調子にはまだ至れていないのだろう。
 心も体も本調子とは行かないが、それでも心配はさせたくなくて、リーファは何とか笑みを拵えてみせた。

「はい。おかげ様で…」
「今回は残念だったけど、また次があるさ。元気出して」
「そう、ですね」

 子供をあやすように、ヘルムートの手がリーファの頭をぽんぽんと撫でてくれた。それだけなのに、何だかちょっとだけ気持ちが落ち着いたような気がした。

 一方アランは不満そうに眉根を寄せ、ふたりをじっと眺めている。多分、リーファの不調を”目”で察してしまったのだろう。

 ───ザハリアーシュの訪問と胎の子の魂の救済の話は、療養中にアラン達に伝えていた。

 ヘルムートなら”耳”でやり取りを聞いていた可能性があったが、彼に心当たりはないようだった。

 当時は熱に浮かされていたし、ただの夢だったのかもしれないが、アランはリーファの言葉を信じてくれたようだ───

「リーファ」

 名を呼ばれて見やると、アランは席を立ち、コートハンガーにかかっている上着を羽織り始めていた。
 そしてリーファが編んだ白いマフラーを持ってきて、ぐるぐるとリーファの首に巻き付けていく。

「今から行く所がある。
 シェリーに今花束を作らせているから、お前も付き合え」
「は、はい…」

 突然の事に目をぱちくりさせていると、横にいたヘルムートが失笑していた。どうやら彼は、行き先を知っているようだ。

 ざっとマフラーを巻かれると、アランはさっさと執務室を出て行ってしまった。リーファも慌てて後を追いかける。

 廊下を出ると、アランは南へ続く廊下を歩いて行く。
 アランは足が長いので、リーファが彼に追い付くにはそれなりに頑張って早歩きをしなければならない。おまけに今の調子では、その早歩きも少しばかり大変だ。

(一体、どこに行くんだろう?
 とにかくアラン様を見失わないようにしないと…!)

 気力を振り絞って廊下を進んでいくと、先を行っていたアランが急に足を止めた。

「…?」

 どうやら考え事をしているようだ。顎に手を当て、何とか追い付いたリーファを無表情で見下ろしている。

「どうしました?」

 さっきから、アランの行動は分からない事だらけだ。まるで、ここに来たばかりの頃に雰囲気が近い。何を考えているのか分からず、どう接するのが正しいのか判断がつかない。

(何だか、アラン様の心が遠い…)

 療養中もそれなりに顔を合わせていたはずだが、流産がきっかけで心が離れてしまったのだろうか───と思っていたら。

「あっ?」

 アランはリーファに手を伸ばし、無言のまま抱き上げた。背中を抱き、膝を持ち上げ、リーファを腕の中に包み込む。

「目を瞑って大人しくしていろ」
「目?」

 急な事を言うアランを不思議そうに見ていると、その視界に階段が見えた。

(あ…!)

 いきなり体が強張る。目眩に似た揺れを覚え、腰に力が入らなくなる。
 多分自力で階段を降りようとすれば、たちまち足が竦んでしまうだろう。

 あの日以降、階段には極力近づかないようにしていたのだ。
 幸いトイレも浴場も3階にあり、食事だけメイド達に持ってきてもらえば、側女の部屋にこもりきりでもさほど不便はない。
 いつまでもこうしていたい訳ではないので、階段の行き来をする練習はしているが、手すりにしがみついていないと足が震えてしまうのだ。

「あ、ありがとう、ございます…」

 心が離れている訳ではないのだと思い知らされ、リーファは安心してアランに身を預けた。目を閉じて、体を小さくする。
 それでも体の震えだけはどうにも治まらず、アランは労わるようにリーファの額にキスを落とし、ゆっくりと階段を降りてくれた。

 ◇◇◇

「王家の墓に埋葬したかったのだが、方々から反対されてな。
 私の子だというのに失礼な話だ」

 そう言ってリーファが連れてこられたのは、ラッフレナンド城に点在する小島の一つ。以前ピクニックに連れて行ってもらった、祠が一宇置かれた島だ。
 祠に程近い場所に一本だけ聳え立つ大きな木の側に、ごく最近掘り起こされたような跡があった。その上に白い石碑が置かれている。

「これは…」
「しかしよく考えれば、こちらは見晴らしも良く、人の行き来もほぼほぼない。
 余人の目に晒される心配を考えるのならば、むしろこちらの方が適切なのではないかとな」

 石碑の前に座り込み、リーファはそこにある文字を読み上げる。

「エニル…」

 石碑に刻まれたその名は、”エニル”となっていた。

 リーファもよく覚えている。アラン達にかかっていた呪いの土台になっていた、二百年前のラッフレナンド王と魔女の間に生まれた子。その名前だった。

 それまで饒舌に喋っていたアランが、声音を落としてぼそりと答える。

「いくら考えても、その名前しか浮かばなくてな…」

 石碑───墓碑の名を指でなぞり、リーファは薄く微笑んだ。

「いえ…良い名前だと思いますよ。私は好きです。
 …素敵な名前を授けて下さって、ありがとうございます」

 プリムラジュリアンの花束を”エニル”の墓碑に添え、リーファは立ち上がった。
 振り返り、精一杯の笑顔をアランに向ける。

「また来ましょうね。いつでも、時間が空いた時に。
 いつか、エニルの弟や妹をいっぱい連れて、ピクニックがしたいです」

 その様を、アランはただ憮然と見下ろしていた。面白くないものを見ているような、思っていたものと違う反応をされたような。

「…?」

 何を間違えたのかと戸惑っていたら、アランがぼそりと呟いた。

「…泣いてもいいんだぞ」
「───!」

 リーファの目は大きく見開かれた。
 アランが不満そうに両手を広げてみせ、リーファはそれが何を意味するのか悟る。

(そういう、事なのね…)

 そもそも、ここに墓碑を置いてくれていた時点で気が付くべきだった。
 ヘルムートがああ言っていたから、アランも『次があるから』と考えているだろうと、そう思い込んでいた。
 でも、違うのだ。

(この方は、そこまで強い人じゃない…)

 アランを前に、笑えていただろうか。目を閉じて、リーファは小さく頷いた。

「………、………じゃあ、ちょっとだけ………」

 甘えるようにアランの正面から寄り添い、その胸に顔を埋めてすり寄る。

 リーファは泣かなかった。肩を震わせても、歯噛みしても、瞳に溜まった雫は決して流さなかった。
 でも、リーファの頭には大粒の水滴が零れてきたから、頬に伝って来たそれをアランの服に静かにこすりつけた。

 空は青く、日の光を遮るものは何もない。
 でも確かに、リーファの側には雨が降り注いでいた。