小説
夫婦の真似事の果てで
 時間は少しだけ遡る。

 1階東側のトイレは、すぐ隣が食堂に通じる通路になっている為人の行き来が激しい。
 混む事が予想されたが、幸いにも個室は空いていてリーファは安堵した。ヘルムートに言われた通り2階は掃除中だったし、3階に行く余力があるかどうかは自信がなかったので、この勘に救われたと言っても過言ではない。

 無事用を足したリーファは濯いだ手をハンカチで拭い、ほっ、と人心地ついていた。
 そして気が緩んだ途端、直前までの出来事を思い出し、憂鬱に溜息を漏らす。

(やっと独りになれた…)

 ここしばらく、ずっとこんな調子だ。

 アランが歩けば『ついて来い』と言われ、アランが座れば膝の上に座らされる。
 引見中はさすがに謁見の間には入れないが、2階に続く階段の踊り場で待機を命じられた。
 食事も入浴も就寝も当然一緒だ。おやつ作りも、ここしばらくは止められてしまっている。
 今までトイレで席を立つ事だけは許可されていたが、ついに『この場でしろ』とまで言われてしまった。

(あの日、『置いていくな』って言われたから我慢してきたけど…さすがにこれは…)

 再び溜息が零れる。今後もこんな状況が続くと思うとぞっとする。

(今…何時かな?そろそろ戻らないと、アラン様怒るかな…)

 トイレを出て、本城の南側の役所関連のフロアを覗く。確か、中央の壁に大時計が飾られていたはずだ。

 役所のフロアは、受付のフロアと各部署のフロアの二つに分けられている。
 まず本城に入ってすぐの受付フロアで手続きに対応する部署を教えられ、その奥に広がる部署のフロアへ向かうのだ。
 部署のフロアは広く、部署ごとはパーティションで仕切られている。皆対応する部署のカウンターに声をかけて手続きを行う。

 フロア同士の境目にある壁の大時計を見に、リーファは東西に伸びる廊下を歩く。この辺りは巡回の兵士も手続きに来る者をチェックしているので、あまり話しかけられる事はない。
 ───と思っていたのだが。

「リーファ?!」
「!」

 唐突に呼び止められ、リーファはその場で立ち止まった。人の多いフロアを、ぐるりと見回す。

 声の主は、榛色の髪を三つ編みに結わえた栗色の瞳の女性だった。樺色のワンピースに白いシャツを着ており、化粧っ気はないが快活そうな雰囲気だ。

 リーファの大きな目が瞬いた。そこにいたのは、長い長い、とても長い付き合いの幼馴染。

「カーリン…!?」
「リーファ!」

 きゃあ、と叫んで、幼馴染のカーリン=マイヤーはリーファに走って近づいてきた。

 手が届く距離まで来ると、まずはふたりでハイタッチ。
 続けてふたり揃いでくるりとその場で回って手を取り合い、手を重ねたり、肩に置いたり、拳にしてノックする仕草を取ってみせる。ラッフレナンドで知られた手遊びだ。
 二年程は顔を合わせていなかったのに相も変わらず息ピッタリにやれて、リーファの顔が綻んだ。

「おおー」
「うまいうまい」
「すごーい。息ぴったりー」

 手遊びが終わると、その場を見ていた事務員やら手続きに来ている人達やらが拍手を送っている。
 は、と我に返り、年甲斐もなくはしゃいでしまったふたりは周囲に頭を下げた。

「は、はは…いやその、どうも…」
「す、すみませんつい…」

 そんな仕草にまたギャラリーが、ははは、と笑う。
 耳まで赤くして周囲に愛想笑いしているカーリンを、リーファは改めて盗み見る。

 ───カーリン=マイヤーはリーファの実家から三軒離れた所の家の娘で、リーファの同級生である。
 学生時代にクラスメイト達に苛められていたリーファは、気の強いカーリンによく庇ってもらったものだ。

 母の急逝をきっかけに学業を諦めたリーファと違い、両親も揃っていて学業もトップクラスの彼女は進学を念頭に勉学に励んでいるらしい、という話が二年前の情報だ。

 順調に行っていれば、希望していた薬学の大学へ通っていたはずだが───

 程なくギャラリーが解散し、元の役所の風景に戻っていくと、リーファは訊ねた。

「久しぶりね、本当に………元気してた?おじさんとおばさんは元気?」
「ああもう、元気よー。
 父さんはこの間の幽霊騒ぎで避難してる時にすっ転んで骨折ったけど、もう歩けるようになって普通に仕事行ってるわ」
「そ、それ結構オオゴトじゃない?大変だったんだ…」

 しれっと言われた被害報告にリーファの口元が引きつる。件の怪異の話は結果を聞かされただけだったが、割と身近に被害を受けている人がいたのだと思い知らされる。

「そんな事より………あの手紙、まっさか本当だったなんてねえ」
「うん?」
「とぼけんじゃないわよ。王様の側仕えになったんでしょ?」
「!」

 にやにやしながらカーリンがリーファを覗き込んできて、思わずたじろいだ。
 近況を記した手紙はカーリンにも送っていた。一年以上前の話だから今とは状況が大分違うが、アランの側仕えをしているという話だけは書いたはずだ。

「あのリーファがねえ…。
 手紙読んだ時は何の妄想が始まったかと思ったけど、その格好見たら信じない訳にいかないでしょ。
 肌綺麗じゃない?洗髪剤何使ってんの?
 ちょっとそこんとこ便所裏で聞かせて貰おうじゃないの、んー?」

 頬をぺたぺたと撫でまわし、髪を遠慮なく指で梳いてくるカーリン。
 学生時代と何ら変わらない幼馴染の子供っぽさに、嬉しいやら鬱陶しいやら複雑な気分でもみくちゃにされながら、リーファは訊ねた。

「そ、そんな事より何でここに?
 入城許可取れなきゃここ入れないでしょ。そっちの用事は?」
「ああ、それなら───」
「………もう、いいか?」

 会話に割って入ったのは、パーティションにもたれて身の置き場がなさそうにしていた男性だ。

 短く刈り込んだ茶髪と黒い瞳の青年は、灰色のシャツに紺色のオーバーオールをだぼっと着こなしている。身長はヘルムートよりも少し高いだろうか、という位だ。

(見た事があるような、ないような…)

 と思っていると、カーリンが青年に手を振っている。

「ジョエル、手続き終わった?」

 頭の中の名簿をひっくり返してその正体を探る内に、ジョエルと呼ばれた青年は面倒くさそうに頭を掻く。

「場所分かんねえんだよ。三番の窓口ってどこだよ」
「どっかに書いてあんでしょ。そこ八番だから、別のとこじゃない?
 …ねえリーファ、三番窓口ってどの辺?」

 カーリンに話を振られ、リーファはフロアの西側に顔を向けた。

「納税課でしょ?案内するよ」
「お、さっすが。助かるぅ。…ほら、あんたは感謝しまくって土下座しなさいよ」
「何でそこまでしなきゃなんねーんだよ!───あ、いや。ありがとな」

 カーリンにケチをつけたジョエルだが、一応リーファにはちゃんと頭を下げてくれる。
 ふたりのやりとりにリーファは苦笑しながら応えた。

「滅多に来れない場所だから仕方ないよ。ついてきて」

 そう言って、リーファは窓口のある西側に向けて歩きだす。カーリンとジョエルも、リーファに続いてついてきた。