小説
捨てられたもの、得られたもの
(う、運動不足ね…)

 なだらかな丘ではあるが、普段城の中をうろつく程度のリーファからすれば汗ばむ程度に疲労がのしかかる。木々が日の光を遮ってくれるから、かなり涼しい気候なのがせめてもの救いだ。

 息を切らしながら十分程、どこまでも続きそうな森を道なりに進んでいくと、唐突に景色が広がった。
 丘の中腹にある広場で最初に目に留まったのは、平屋造りの一軒家だった。

 屋根は藁だろうか。黄色い植物の茎を干したものが摘みあがっている。壁材はオレンジ・茶色・白などのレンガを使っているようで、まだ建てられてそこまで年月は経っていないような印象だ。庭には洗濯物が干され、生活感がある佇まいに見える。

 ───がちゃああん!!!

 南の方面は傾斜もあって景色が開けており、近くにある町が一望できるようだが、残念ながらのんびり眺めている暇はなさそうだ。家の中から何かが割れる音が響き、もくもくと黒い煙が上がっている。

「こんな家いられっか!!家出だ、もー家出だ、さっさと家出だコノヤロー!!!」

 ───どごっ!!

 罵声と共に扉が蹴破られ、小さな影が飛び出してきた。
 身の丈はリーファよりも頭一つ分は小柄だろうか。藍錆色の短く刈り込んだ髪の少年だった。

 目を引くのは、眉より少し上あたりから伸びている二本のねじれた角だ。黄色がかった白い角は後頭部に向けて反り返っていて、少年の短い髪の間からはみ出ている。
 そして、カーキ色のニッカボッカから見える、髪と同じ藍錆色の足は。

(…蹄?)

 少年の足は、黒光りした蹄だった。よく見ると、膝から下も人間の構造とどことなく異なっている。藍錆色の脛は靴下ではなく、どうやら少年の体毛のようだ。

「ま、待ちなさいバンデ!家族が一緒に食事をしないだなんて許しませんよ!?」

 と言って慌てて出てきたのは、一人の女性だ。
 年齢はリーファよりは年上、という印象だ。射干玉の種子のような艶やかな黒い髪は編み込んで一つにまとめており、紅紫の双眸が上品な感じだ。

(お───大きい…!)

 一際目を引いたのは、その豊満な胸部だった。
 細身にも関わらず胸回りだけは大きく膨らんでいて、まるでメロンを二つ抱えているようだ。着ているライラックカラーのワンピースも、胸回りだけサイズが合っていないのか、服が伸びて大きく開いてしまっている。

「何が家族だエラソーに!だったらメシくらいまともに作れるようになれよ!」
「だ、だって…フライパンからいきなり火が上がるだなんて思わないじゃない…」
「油入れすぎなんだよ!あれじゃ卵焼きじゃなくて揚げ卵だろが!」
「わたしの地元ではこれが普通なの!」

 親子喧嘩のような痴話喧嘩のような、とにかく犬も食わなさそうな会話が続いている。

 何か大事なのかと思えば、どこにでもあるような騒動でリーファは正直安堵した。相変わらず家からは黒煙が上がっているが、そこまで深刻でもなさそうだ。

(こういう場合って、声をかけていいものなのかな…?)

 今もなお収拾がつきそうもない喧嘩を聞き流し、リーファは悩んだ。リーファが母と口喧嘩をした時は、大体通りすがりの近所の女性が仲裁に入ってくれたものだが、生憎リーファ自身は仲裁の経験がない。

 だがリーファが判断するよりも早く、女性の方がこちらに気が付いたようだ。

「あら、お客様?」
「あん?なんだよ、まだ話は…」

 少年も、こちらに顔を向ける。

 喧嘩を終わらせてしまって良かったのか悪かったのか分からないが、とにかく話を切り出せるタイミングが出来た。リーファは彼らに近づき、恭しく頭を下げた。

「こ、こんにちわ。お取込み中すみません。
 この近隣に住んでいるという魔術師の女性に会いに来たのですが、あなたの事でしょうか?」
「…ええ。ここら辺で女性の魔術師というとわたしね。
 魔術の心得がある子はみんな、中央に移ってしまうから」

 そう言って、女性は清楚に微笑んで見せた。
 一方少年の方は、警戒心をこめた眼差しをリーファに向けている。髪と同じ藍錆色のふさっとした尻尾を足に巻き付けており、下手に動いたら噛みつかれそうだ。

 少年の動向にも目を向けつつ、リーファは自己紹介をした。

「それなら良かった。
 …私はラッフレナンドから来ました、リーファ=プラウズと申します。
 ターフェアイト様に師事していた者です」

 ターフェアイトの名を出すと、女性は、ぱ、と顔を明るくし、少年の横を通り抜けてリーファに近づいた。

「わ」

 近すぎる、と思ったが遅かった。
 女性はリーファを抱き締め、その豊穣の結晶を惜しげもなく押し付けてきたのだ。

(包容力………すっごいっ!!)

 胴体に伝わってくる柔らかくも弾力のある感触に、リーファはつい固まってしまう。
 この感覚は、もしかしなくてもブラジャーやサラシを巻いていないのかもしれない。別に女性が好きとかそういう感情はないが、この懐の深さは誰もが求め憧れてしまうものだ。

 どこに手を置いていいものか悩んでいると、耳元で女性が涙ぐみながら話しかけてきた。

「ああ…ターフェ様がラッフレナンドのお城へ行くと言った時は、とても心配したのだけれど。
 こうしてあなたが来てくれたという事は、ターフェ様もお元気にされているのね」
「そ、そこも含めてお話出来ればと思います。…ええと」

 リーファが言いたいことを、彼女は何となく察したようだ。
 名残惜しく体を離し、一歩下がって胸に手を当て、彼女はにこりと微笑んだ。

「ああ、自己紹介が遅れたわね。どうぞ、わたしの事は”魔女”と呼んでね」
「…え?」

 あんまりな自己紹介に、リーファは一瞬耳を疑った。

 しかし、頭の中に刷り込まれた直前の記憶を掘り起こしても、彼女は”魔女”と言った気がする。
 間違えがあってはまずいから、リーファはもう一度彼女に訊ねた。

「あのお………お名前、は?」
「だから、”魔女”で」
「………………………」
「………………………」

 聞き間違えようもなかった。にこにこ微笑んでいる彼女は、自分の事を”魔女”と言ったのだ。

 魔術師の事を魔女と呼ぶ場合はあるが、多くは悪いイメージから来るものだ。
 魔術を悪用し人を害する女性を主に差すが、時に男性を差す時もあるのだという。また魔術を使えなくとも、男性を惑わす女性をこう呼ぶ事もあるとか。

 もっともこれは、ラッフレナンド国での価値観だ。エルヴァイテルトでは違う意味も含まれているかもしれないが。

 互いに黙り込んだ状況を見慣れているのだろうか。バンデと呼ばれていた少年が彼女の横からこそっと出てきて、困り果てているリーファに教えてくれる。

「…ねーちゃん。こいつに何言ってもムダだぜ」
「え?」
「こいつさ、自分の名前思い出せねーらしいんだ」

 バンデの言葉に、リーファは困惑をより深くした。
 どこかで誰かの二つの腹の音が、ぐぎゅう、と鳴った気がした。