小説
捨てられたもの、得られたもの
 目眩も治まってきたようで、少しふらつきながらも魔女は元の席に戻ってきた。

「まったくもう…困った子ね。
 リーファ、気を悪くしないでね。あの子、誰に対してもああだから…」
「え、ええ。はい、大丈夫です」

 多少ショックはあったが、塞ぎこむ程でもない。気持ちを切り替える事にして、改めて彼女と向き合った。

「なら、おじゃま虫も出かけた事だし、色々話をしましょうか」
「あ、その前に」
「うん?」
「あなたに対する呼び方なのですが…」

 小首を傾げてリーファを覗き込んできた彼女だが、再びの話題にさすがに顔を曇らせる。

「だからそれは”魔女”で…」
「ええ、はい。
 しかし私の国では”魔女”は良くない呼び方なので、言うのに抵抗があるんです。
 別の呼び方をしても良いんでしょうか?名前を一部もじるとか」
「ニックネームは…ダメなの」

 肩を落とし目を伏せる彼女を見て、それが彼女を常々悩ませている事なのだと気づく。

「色々試してはみたのだけど、その名前を自分だと思った瞬間、頭にもやがかかってしまうの………認識出来ない、って言った方がいいのかな…」
「ニックネームも認識出来ないと………それは、本当の名前に関係ない名だとしても、ですか?
 その、さっきみたいな………うし…ちち………みたいなのは、反応しているようですけど…」
「あれは………よく分からない。
 わたしを指す名だと、認めたくないのもあるのだけど………」

 そう言って、彼女は溜息を零す。

(自分の名前を認識出来ない…か)

 あまり聞いた事のない症状に、リーファは眉根を寄せる。

 人の名前や顔が覚えられない、という人の話は聞いた事があるが、それはあくまで対象が”自分以外の誰か”だ。
 生きている上で一番大切な”自分の名前を名乗れない”というのは、別次元の問題のような気がする。

(というか、これはもしかして………でも、何故…?)

 彼女が発している、何度か感じた事がある”ソレ”。
 つい調べてしまいたくなる欲求に駆られながら、どこか妥協点はないだろうかとリーファは更に模索する。

「…では敬称はどうでしょう?
 ”魔女”はどちらかというと職業名ですから、類似するものならいけそうな気がします。
 例えば………あなたはターフェアイト師匠の弟子。
 加えて、私よりも早く弟子になった方ですから、”姉弟子様”は?」

 良案が出たようで、彼女から笑顔が戻って行く。でもちょっと引っかかるようで、人差し指を口元に当てて考え込んでいる。

「ああー………それ、なら…大丈夫、かなぁ。
 でもちょっと仰々しいな………”姉さん”、とかなら自然かしら?」
「なるほど。そういうのでいいんですね。
 いいですよ。では、よろしくお願いします。”姉さん”」

 何とか折り合いがついたようで、リーファは胸をなでおろした。魔女と名指しするには気が引けていただけに、認識できる名称があるのは嬉しい。

 ふと、魔女───もとい姉さんは、リーファをじっと見つめてきた。
 どこか慈しみを感じさせる面持ちで見られ、リーファは首を傾げた。

「どうしました?姉さん?」
「…何だか義理の妹が出来た気分。初めて会ったのに、初めて会った感じがしないの」
「…そうですね。私も、初対面の親戚のお姉さんに会った気分です。
 師匠で繋がってますから、何だか親しみを感じます」
「そうねえ」

 そして今日初めて出会った姉妹弟子は、互いの顔を見合ってクスクス笑うのだった。

 ◇◇◇

 リーファが一通りの説明を姉さんに話すと、彼女は神妙な面持ちで静かに頷いた。

「そう…ターフェ様はもう…」
「荷物は片付けてしまいましたが、お墓は住処の側に作って埋葬しました。
 姉さんも、どうぞ時間がある時に墓参りにいらして下さい」
「ええ、そうさせてもらうわ。
 …でもターフェ様は、落ちこぼれのわたしなんかに会いたいと思うかしら…?」

 気後れした様子で呟く彼女を見つめ、リーファは怪訝な顔をした。

 姉さんがリーファに最初に見せてくれた魔術は、家の修復だった。キッチンを焦がしてしまったようで、破損した窓や扉も含めての修復だ。

 その時、彼女の魔術の腕を垣間見たのだが。
 詠唱に魔力を通す時間、詠唱から発動までの時間、効果が顕現する時間、どれも数秒中に成され。
 要する魔力の量に一分の狂いもなく、詠唱はどこまでも洗練された言葉が選ばれて。
 瞬きをする間もなく、家は修復されていったのだ。

 もしかしたら晩年のターフェアイトと同格ではないか、とすらも思えた。相当な魔力量と魔術センスがなければ為せない技量だ。
 ここまで才能を持っていると、もはや嫉妬とか対抗とかする気すら起きず、第二の師として弟子入りしてしまいたくなってしまう。

(こんなにすごいのに、落ちこぼれだなんて…上には上がいるのかな…)

 ターフェアイトの他の弟子なのか、エルヴァイテルトの魔術師達を指しているのかは分からないが、もっと優れた人材がいるのかと思うと、只々恐縮してしまう。世界は広い。

「な、何言ってるんですか。気にかけなければ、こんな手紙は私に宛てませんよ。
 弟子達に…とは書いてありましたけど、文面を見る限り私宛のようでしたから」
「…お弟子さんが他にもいるの?」
「はい。カールさんという城勤めの兵士さんが、師匠の最後の弟子です。
 フェミプス語は元から理解があったようですけど、時間がなかったとはいえ、僅か一ヶ月で魔力を通して紋を施す事まではしてみせました」

 ざっくりカールの事を説明してみせると、姉さんはほお、と甘ったるい吐息を漏らした。小指を唇に持って行く仕草は、何とも艶めかしい。

「一ヶ月でそこまで………才能のある子なのね…羨ましいわ」

 またしても彼女からそんな言葉が出てきた。これで厭味ではないのがまたすごい。

「才能もそうですが、魔術に対してとても勤勉なのは羨ましい限りです。
 私もそのくらい勉強好きなら良かったんですけど…どうにも、向上心がなく…」
「人それぞれだもの。あなたはあなたなりに出来る工夫をすればいいのよ」
「…ありがとうございます。姉さん」

 彼女のささやかなアドバイスに、リーファは首を垂れた。これがターフェアイトなら『甘ったれるな』と一喝されていたところだ。

 姉さんは、テーブルに置いたターフェアイトの手紙を読んでいた。

 一枚目はリーファ達宛てで、『エルヴァイテルトに住んでるアタシの弟子が何だか困ってるらしいから、手伝いに行っておやり』という内容が。
 二枚目は姉さん宛てで、『あんたの所に使えるヤツを送ってやるから、たーんとこき使ってやるといい』と書かれていた。最後の方に大きな円が描かれている箇所がある。

「それで、この便箋にサインを書けばいいの?」
「ええ、はい。そう書いてあるんですが…。
 そういえば、サインを求められた場合は何て書くんですか?」
「いつもは”スロウワーのはずれ魔女”で済ませてしまうわね。
 …ああ、スロウワーっていうのは、南にある町の事ね。
 これは恐らく、名前を書く必要はないと思うの。血判でいいのではないかしら?」

(”スロウワーのはずれ魔女”だと、まるで魔女がはずれみたいな印象になりそうだけど…)

 サイン一つにおいても、彼女の遠慮がちな性格が出るようだ。

(いやでも、私もつい自分を卑下する癖はあるし、カールさんも日が浅いからか控えめなのよね…。師匠に師事した人って、謙虚な人が多いのかな…)

 ターフェアイトがそういった人材ばかりを弟子にしているのか、そういう人材がターフェアイトに惹かれてしまうのかどちらかは分からないが。

 そんな事を考えている内に、姉さんは詠唱を始めて親指を浅く切り血を絞りだしている。便箋の丸が囲ってある箇所に血に濡れた親指を強く押し付ける───と。

「わっ」

 直後、ぱ、と真っ赤な煌めきのようなものが便箋から飛び出て消えて行った。
 さすがに驚いたようで、姉さんが目をぱちくりさせている。

「…何か今光ったわ」
「信じられない…本当に呪いがかかってたんですね…」

 便箋を見ると、血で濡れた部分がずるずる移動して、紋様のような文字を形作る。フェミプス語で『呪いは解けました』と書かれていた。
 これが呪いの発生源ではないようで、恐らくフラグのようなものなのだろう。今頃、どこかにある呪いの本体の効果を消滅させているはずだ。

「な、何はともあれ、ありがとうございました。これで陛下も安心されると思います」
「お役に立てて何よりよ。姉、ですからね」

 鼻息を荒くしてどこか誇らしげに胸を張る彼女は、どうやらその呼び名を気に入ってくれたようだ。
 リーファは最優先で為さねばならない事を無事終え、胸をなでおろした。