小説
捨てられたもの、得られたもの
「はっ!───うっ!?」

 応接室の奥のソファで、バンデがいきなり目を覚ます。
 そして、天井を照らす魔術の灯りに目を細めた。

「…目は覚めた?」

 手前のソファで乱れたパジャマを着直したリーファが声をかけると、バンデが体を起こした。
 寝ぼけてでない限り、自分がこの部屋で何をしたか覚えているはずだ。

「自分がした事、覚えて───」
「う、うわああああぁ!?」 

 バンデの絶叫が部屋中に響き渡る。
 幽霊を見たってここまで怯えないのではないだろうか、という程に少年は取り乱し、バタバタと音を立て、慌ててソファの裏側に逃げ隠れた。

 リーファが席を立ってソファの裏側に歩いていくと、腰を抜かしたバンデがじりじりと後ずさりをしている。

「ぎゃっ?!」

 しばらく目で追っていくと、少年は応接室の壁にぶつかってまた悲鳴を上げた。酷い怯えようだ。
 冷たい眼差しで見下ろし続けていると、やがてバンデは鼻水と涙を垂れ流し、尾を体に這わせて蹲り、リーファに謝り倒した。

「ごめん、なさい………ごめんなさいぃぃ………!
 こ、ころさないで…ころさないでぇ………ううぅ…!!」

 こうしていると、まるで体罰を与えているような気分になってくる。ある意味、これ以上にない体罰ではあったかもしれないが。

(…グリムリーパーに一度刈られた人は、やっぱり恐怖心が植えつけられるのね…)

 こういった光景は、実は以前も見た事があった。

 ───呪術師シュタイン=ヴァイゼンの魂を刈り取り、記憶をいじって肉体へ戻す作業をした時の話だ。
 あの時の呪術師は、リーファの顔を見るなり発狂し、ベッドで布団をかぶって震え失禁する醜態を晒してしまったのだ。

 居合わせたグリムリーパー・ハドリーは、

『記憶はなくても刈られた箇所が心の奥底に傷跡として残るんだよ』

 と言っており、『グリムリーパーは何だかよく分からないが恐ろしいもの』という感情を植え付けるようなのだ───

 何にしても、怖いイメージを持ってくれるなら、尋問もお願いも容易いだろう。
 リーファは溜息を吐いて腕を組み、バンデに問い質した。

「こんな事、姉さんにもしてるの?」

 鼻水と涙でべしゃべしゃになった赤い顔を見せてくるものだから、「うわ」と呻き声を上げそうになる。
 リーファはテーブルに置いていたリュックサックからちり紙入れを取り出して、バンデに差し出した。

「え、う…?」
「顔を拭いて。…一緒の部屋で寝てるなら、姉さんの事が気になるんじゃない?」

 バンデは震えながら手を伸ばし、ひったくるように手のひらサイズのちり紙入れを受け取った。
 そしてちり紙で、ぶべー、と景気の良い音を立てて鼻をかむ。

 ちり紙を何枚か消費して鼻水と涙を何度か拭うと、やや落ち着いてきた少年は徐に口を開いた。

「においが…」
「匂い?」

 聞き返すと、バンデはびくっと体を震わす。
 大人ですら発狂する体験だ。さすがに植えつけられた恐怖はすぐには払拭しないらしい。

 あまり喋らないようにと黙り込むと、ぽつりぽつりとバンデは話し始めた。

「…ここずっと、あいつに近づくと、においで気がおかしくなるんだ…。
 甘いっていうか、すっぱいとは違うけど、何か、クセになるにおいっていうか…。
 なんかムラムラするし、ちんちん痛くなるし、朝起きたらパンツ汚すし…」

 なかなか生々しい話が出てきて、リーファは露骨に嫌な顔をした。
 リーファ自身、男性の生理現象というものをよく分かっていないのもあるが、全ての男性に同じ現象が起こっていると考えると、少し怖く感じてしまう。

(城の兵士の人たちも、こういう事に悩んだりするのかな…)

 世の男性達の苦労に、ちょっとだけ同情する。

「あいつ朝までなかなか起きないし、寝相悪いからパジャマ?ネグリジェだっけ。とにかくめくれてるし。ちょっとぐらいならいいかなーって…。
 ………におい、かいだり、乳、もんでました………」

 膝を抱えて行儀よく座り自分の痴態を告白したバンデは、顔を赤くしてより一層小さくなっていた。

 少年の自白を受け止め、リーファは眉根を寄せた。物足りない、というとおかしな話だが、それだけなのかと勘ぐってしまう。

「姉さんの匂い嗅いで、胸触って、自分のち………下半身をいじって?他には?」

 キョトンとした顔を上げ、バンデが逆に聞き返してくる。

「…他には、って。他に何やりゃいいんだ…?」
「そっか…そうよね。そういうのって、教わらないと覚えないものね…」

 腑に落ちて、リーファは唸り声を上げた。嘘をついているかどうかは分からないが、友達ともそういう話はまだしていないのかもしれない。

 リーファは何となくリビングルームの方を見やった。物音がした訳でもないし、声が聞こえた訳でもなかったが、姉さんが聞き耳を立てていたらどうしよう、とちょっと気になっただけだ。

「なあ…」

 恐る恐る声をかけてくるバンデの方を向くと、まだ怖いらしく肩を竦ませる。

「何?」
「…おれ、リーファにも同じことしたけど…そこは怒んないんだな…?」

 腕組んでふんぞり返っているのだが、バンデにとってリーファは怒ってないように見えるらしい。
 いちいち言うのも面倒だが、認識は改めて欲しいから、リーファははっきりと告げた。

「怒ってるよ」
「…でも」
「何されたかは覚えてないと思うけど、おしおきはしたのよ。
 …操を立てている方に顔向けできないような事をされてたら、もっと酷くしたかもしれないけど。
 もう二度と同じ事をしないと誓ってくれるなら、私はこれで十分」

 バンデはほんの僅かな時間だけ黙り込んだ。
 くしゃくしゃになったちり紙が散らばっている床を見つめても何がある訳でもないのだろうが、考え込むのに下を見る必要はあるのだろう。

 やがて、短く簡潔に、謝罪の言葉を口にした。

「…ゴメン。もう、しないよ」
「よろしい」

 頷いて、リーファもその謝罪を受け入れた。

 はあ、と溜息が零れた。バンデばかり叱ってみたが、リーファに落ち度がない訳ではない。
 ソファの背もたれに腰を預け、リーファは話を続けた。

「…まあでもね。年頃の男の子がいる家で、鍵もかけずに就寝した私も悪いのよ。
 大人になると、子供のそういう事も考えないといけないのに、私も気が緩んでたわ。悪かったわね」

 バンデがむすっと頬を膨らませ、つい反論してくる。

「…子供扱いすんなよ」
「だったらもうちょっと、姉さんとの付き合い方考えなさいよ。
 姉さんと部屋別々にしてもらうとかさ」
「言えねーよ。ちょっと離れると『なんで?』って泣きそうな顔するんだもんよ。
 ………ここに来たの、それが理由か?」

 思ったよりも踏み込んで話をしてしまったらしい。
 口元に手を置いて噤むが、別に白状してしまってもどうなるものでもないような気もする。
 苦笑いを浮かべて、正直に話してしまう。

「来る前は何も聞かされてなかったんだけどね。
 私もあなたくらいの男の子と接する機会がないから、じゃあ出来る所からって話になったの。
 そういう意味では、料理を教えるって話は間違ってないのよ?」
「…ふーん。別にウシチチの飯、嫌いじゃねえんだけどな…。
 まあうまくなってくれんなら、好きにがんばればいーんじゃねーの?
 …そこよりも、においなんだよな………リーファのは、そこまでじゃなかったし…」

 バンデはそう言って膝を抱えて考え込む。