小説
捨てられたもの、得られたもの
 バンデの記憶は、暗い暗い闇の中から始まっていた。

 手も足も満足に動かせず、時折何かに触れるがすぐに離れていってしまう。
 とても狭い場所なのだと思ったが、柔らかく、温かく、妙に心地良かった。

 母親の胎の中ではないだろうか、と勝手に思った。

 ◇◇◇

 音は、よく聞こえてきた。

 人混みの喧噪、家族らしき人々との団らん、動物とのたわむれ。
 多くは濁って聞こえたが、母親らしき女性の声はそれでも一番良く聞こえたと思う。

『今日───でね───がきたの───から来た───すごく───で───』
『───に着て───ドレス───完成───の、───上手く───と───けど───』

 陽気ではつらつとした女性の声。

『最近───が───て、すごく───がムカムカ───どうして───?』

 誰かとの会話はとても楽しそうではあったが、徐々に不調を訴える言葉が増えていく。
 そして彼女は、自分が身籠った事に気付いたようだった。

『ラウル───怒らないで───。もしかしたら───したかも───』

 何故泣くのか、よく分からなかった。とにかく不安だけは、ひしひしと伝わってきた。

 泣きじゃくる彼女に対し、相手の男性は怒るどころかとても喜んでいたように聞こえた。
 相手の男性は、どうやら『一緒に暮らさない?』と提案したようだ。

 彼女はとても悩んでいた。

『わたしは───だし、───出て───ら、きっと───わ』

 だが、男性は粘り強く諭した。
 男性にとって、彼女の家族よりも、彼女と胎の子供が大切だったのだ。

『ありがとう───行きましょう、ラウル───』

 彼女も理解を示して、駆け落ちする事が決まった。

 ◇◇◇

 なのに。

 叱責、恫喝、脅迫、慟哭が響いた。
 胎の中にも、動揺が伝わってきた。

『逃げて、───!!───のことはいい───、生きて、お願い、───!』

 女性の悲鳴が響き渡る。どうやら、駆け落ちする事がばれてしまったようだ。

 遠いところで、馬の嘶きが聞こえた。
 彼女の悲鳴が、胎を揺るがした。

『いやーーーーーーっ!!』

 ◇◇◇

 小鳥のさえずり、森の葉擦れ、人々の賑やかな暮らし、愛する人との語らいは消えてなくなった。

 胎の外は静寂が支配するようになった。

 時折聞こえる誰かの罵声と女性のすすり泣く声ばかりが、胎にいつまでも届くようになった。

 ◇◇◇

 どれほどか、時間が過ぎて。
 胎の子は、女性の長い長い呻き声と共に産み落とされた。

 狭く息苦しく眩い道が開かれ、自ら進む事も抗う事も許されぬまま、ゆっくりゆっくりと押し出された。
 突如開けた視界に目をすぼめ、自分の産声のやかましさに涙が零れた。
 手も足も動くが思う通りとはいかず、胎の保護から解き放たれた肌は外気に触れてひたすら痛い。

「ああ………ああぁ………っ!」

 ぼんやりとした世界の中、必死に呼吸を繰り返していた彼女が目の前に飛び込んできた。

 唐突な苦しみから始まった生だった。
 でも、放心しながらも自身を抱き寄せてくれた彼女のぬくもりだけが、唯一の救いだと思えた。

 しかしそれも、短い間だったように思う。

 ◇◇◇

 彼女と自分の寝床は、物置小屋のようだった。
 足元は藁が敷かれ、壁と屋根は隙間だらけの木材で構成されているようだった。窓はなかった。
 外側から鍵がかけられているのか、外へ出る事は出来ず、排泄物の臭いは相当酷かったのだろうが臭いを感じる事はない。恐らく慣れてしまっていたのだろう。

 時々、中年女性が食事を運んで来ていた。
 何となく女性に似ているような気がしたが、中年女性はトレイを地面へ置くとすぐに小屋を出て行ってしまうのだ。

 そして、遠くからすすり泣く声が聞こえる。
 その声を聞いて、彼女も声を押し殺して泣く。この繰り返しだった。

 ◇◇◇

 一度だけ、中年女性が彼女に言った事があった。

「───リゼット。
 お父さまは、その子を殺せばあなたが犯した過ちを赦すとおっしゃってくれました。
 その首を絞めるだけでいいの。もしくは藁を口に詰めなさい。あなたが罪に感じる事など何もありません。
 あなたを助けてくれるのは、バラバラにされて売られていった獣の肉の塊ではないはずよ。
 本当に…お願いだから。よく、考えて───」

 だが彼女は、半狂乱になってそこら辺にあったものを投げつけ、必死になってその言葉を拒絶した。

 ◇◇◇

「ごほっ、ごほっ───はあ、ああ…」

 ぼんやりとした視界の中、彼女の咳き込む音が聞こえる。

 小屋の中はとても寒い。外はもっと寒いのだろう。壁の隙間から流れて来る寒風に触れただけで、肌の温度がぐっと下がっていく。
 凍えまいと彼女は自分を抱き寄せて、側にあった藁の束で体を包む。彼女の体もとても冷たかったが、その肌はずっと触れていたいと思えた。

「リ………、………ヤン………。わたしと………ラウルの、きずな………」

 彼女の息は荒く、顔色は悪い。
 胡桃色の短い髪は痩せ細り、品のある紫色の瞳は力がない。
 頬はこけ、触れてくる指先は骨と皮だけになってしまった。

 届く食事の量は大幅に減っていた。そしてその食事は、全て自分に食べさせてくれていた。
 いくらなんでも彼女が持つはずはないと、子供ながらに思った。

「ごめん、ね………ごめんね………。
 わたしじゃ…あなたを………まもり…きれない………。
 …どうか………いきて………あなた、だけでも………」

 小屋の中に置いてあったトレイには、血で文字が書かれていた。
 内容までは、読み取れなかった。

 ───翌日。
 冷たく動かなくなった彼女の体は、来た人間たちに引きずられて行った。
 どこに行ったかは、分からなかった。