小説
捨てられたもの、得られたもの
「「シュティーア………わしの、シュティーア=ブルスト…」」

 残留思念の大きさは小指の爪程。ターフェアイトのそれよりもずっと小さい。小規模な呪いだったからか、意識は残せていないようだ。うわ言のように、生前故人が考えていた言葉を零していく。

「「わしのおんなになれば………よくして、やったものを…」」

 気になる言葉が耳を掠めた。

 姉さんの艶めかしい姿態は、リーファからみても魅力的と思えるものだ。あの制約を使えば、意識がない内に幾らでも思い通りに出来ただろう。
 姉さんが逃げ出した経緯にもどこか試すような思惑は感じられたが、そんな事があるのだろうか。

「…まさか、手を出してなかったの?」

 疑わしい気持ちを胸に残留思念をすくい上げるも、リーファの問いかけに答える事はない。ただ、上の空で呟き続ける。

「「………おのれ………ヴァルヴァラめ………どく、など…」」
「ヴァルヴァラ…?」
「「おお………わしの………わしの…シュティーア…」」

(…ダメ、ね)

 同じ言葉を繰り返し続ける残留思念を見下ろし、リーファは溜息を吐いた。元より残留思念はこういったものだ。意識を残し会話までしてみせるターフェアイトが規格外なだけなのだ。

 何とはなしに、リーファはちらりと家の方を見やる。
 姉さんはこちらを眺め、事の成り行きを見守っているようだ。ベッドから降りて窓越しにリーファを見つめ、肩に乗せたターフェアイトと時折話している。

 本来、生者は死者と言葉を交わす事は叶わない。橋渡しが可能なのは、グリムリーパーだけだ。
 決して、為さねばならない務め、という訳ではないのだが───

「………………。シュティーア=ブルストは、『あなたと一緒にいた日々は悪いものではなかった』と言っていましたよ。
『とても、良くしてもらった』…と」

 手中で小さく揺れている微かな記憶の欠片に、リーファは粛々と告げた。

 届くはずはない、と思っていた。今まで何度か似たような語り掛けをした事はあるが、反応が返ってきた事は一度もなかった。
 つまるところ、自己満足だ。会った事もない誰かに、自分の薄っぺらい言葉が微かにでも届けば良いな、と思っただけだ。

 そうして、無反応な残留思念を確認して、ちょっとだけ恥じ入ってから回収する。そのつもりだったのだが───

 揺れていたそれが、ぴたりと動きを止めた。
 そして。

「「………………すま、ない」」
「!」

 ぼそりと呟かれた言葉が、生前のものだったのか、死後のものだったのか。

「「………すまない………すまなぃ………すま、なぃ………」」

 何に対して答えているのか分からなかった。しかしそれは壊れたオルゴールのように、何度も何度も謝罪の言葉を口にした。

 雨音が多くの雑音を遮って尚、魂の残滓はあの先にいる女性に伝えようとしている───そうリーファは思いたかった。

「…伝言、承りました。───さあ、ひと時の安らぎを、幽かなあなたにも」

 リーファは厳かに応え、手甲にはめられた宝玉へ残留思念を静かに収めた。

 残留思念の回収を恙なく終え、リーファは力を失った石板とブレスレットを持って家へと戻って行く。
 東の寝室へ近づくと、姉さんが部屋の奥から窓に駆け寄ってきた。どうやらタオルを持ってきてくれていたらしい。

「すみません。泥で汚れてしまいました」
「ううん、大丈夫。このまま預かるわ」

 石板の泥を手で拭い、リーファは窓越しにそれらを渡した。姉さんは石板とブレスレットをタオルに包んで丁寧に拭いている。

 そしてリーファは自身の体を非実体化させた。姿が半透明に解けて背景を映し出すようになると、表面を伝っていた水滴や泥がバチャンと足元へ落ちて行く。濡れがない事を確認してから部屋へ入り、人間の肉体へと戻って行った。

 誰もいなくなった窓の向こう側と、部屋の中でネックレスを付け直しているリーファを交互に見て、姉さんが不思議そうに溜息を零す。

「不思議な生き物ね………グリムリーパーと人間のハーフって」
「個人差があるらしいんですけどね。同じハーフでも、霊感が強い程度で済んでる人もいるみたいですよ。
 …ところで話は変わるんですが、姉さん、ヴァルヴァラって名前に心当たりは?」

 いきなり訊ねられて、彼女は少しの間小首を傾げていた。しかしすぐに思い出したらしく、教えてくれる。

「ゲラーシー様の奥方様ね…。わたしが付き人を始めた頃には、もう別居されていたみたい。
 よくお金を無心する手紙が届いて、ゲラーシー様その度に機嫌を悪くされていたわ」
「何か見えたのかい?」

 姉さんの肩の上のターフェアイトに訊ねられ、リーファは腕を組んで唸り声を上げた。

「あのゲラーシーっていう人の残留思念が、毒を盛られたような事を言ってて…。もしかしたら、死因に姉さんは関係ないのかもしれないな…って」
「………ゲラーシー様………」

 故人を想って肩を落とした姉さんの頬を撫で、ターフェアイトが珍しく労わっている。

「あんたは昔っからそそっかしいからねえ。一度調べておいた方がいいんじゃないかい?」
「はい…」
「それと、姉さんに手を出してなかったような口ぶりだったんですよね…。
 何の事かは分からなかったけど、『すまない』って何度も謝ってて…」
「え…?」

 その話は期待していなかったらしく、姉さんが目をぱちくりさせている。
 そこへすかさずターフェアイトが反論した。胸の上の柔らかい膨らみを、ヒールで無遠慮に踏みつける。

「んな訳ないでしょお。この乳見て揉まない男は男じゃないよぉ」
「そっ………そんな事はありません!ゲラーシー様は博識で色んな事を教えて下さいましたし、とても親身に接して下さったのですっ!
 手料理も振舞って頂いたし、わたしが贈った花束も飾って下さって…。
 それから………ええとそれからぁ───」

 ターフェアイトと姉さんの会話を聞き流しながら、リーファは只々あの残留思念の事を思う。

 契約の石板といい、呪いがかかったブレスレットといい、姉さんを愛人にしようとしていた事といい。ゲラーシーという人物に対して、どこからも良い印象は抱けなかったが。

(私にとっての、アラン様みたいな人だったのかもしれない…)

 そうも考えてしまう。

 怖い人だと思っていた。酷い人なのだという評判もあった。実際、酷い目にも遭った。
 でも寄り添ってみたら違う側面も見えてきて、最初と比べたら印象は随分変わって行った。

(相手の上っ面が如何に酷く見えても、接していた姉さんの気持ちは姉さんのものだものね…)

 ターフェアイトの『男とはこうであるもの』という意見と、姉さんの『ゲラーシー様は素晴らしい方だった』という意見がぶつかり合い、蚊帳の外のリーファは落ち着いてきている外の雨をぼんやりと眺めたのだった。