小説
捨てられたもの、得られたもの
 故人の再評価という、当人の益にもならない討論が終わった頃合いを見計らって、リーファ達はリビングルームで待ちくたびれていたバンデと顔を合わせた。
 改めて姉さん達にラザーとターフェアイトを紹介して、そこから今回の状況を整理する事になったのだが───

「…で、こいつらどうすんだ?」

 応接室のソファで眠り続けているアリルとディマスを見下ろし、バンデの疑問に誰もが唸り声を上げた。

 彼らの上には魂が一位ずつ浮いており、落ち着きなく動き回っている。肉体が生きている為、まだ側から離れたがらないようだ。

「魂を戻すのは簡単です。
 でも彼らの目的は、フェミプス語を解読できる姉さんの回収らしくて。
 起きたら、すぐに襲ってくると思うんですよね…」

 リーファの考えに、誰からも溜息が零れる。

 例の契約の石板には、姉さんの魔術使用に反応して居場所を示す機能が付与されていた。
 ざっくりと方角を示す程度のものだったが、最近の姉さんは反抗期のバンデが物を壊す度に回復魔術を使用していたらしく、石板は度々姉さんの居場所を示していたのではないか、と容易に推測出来た。

 狙われているにも関わらず、本人は何ともあっけらかんとしている。両手を合わせ、楽観的に姉さんは声を上げた。

「いっその事、協力したらダメかしら?」
「無償で働けとか言う奴らですよ?良い労働条件だとは思いませんけど」
「それに、ウシチチが連れてかれたらおれらどーすんだよ」
「らざー、いっしょに、いくー」
「基本的に、無関係な子は置いてかれると思うのよね…」
「えー、やだー」

 誰が教えたのか───まあ一人しかいないのだが───、ラザーは両手を振って駄々っ子のポーズを取っている。これがまたちょっと可愛いものだから、リーファもどう返して良いか反応に困る。

「殺しちゃえばいいんじゃね?
 このままならほっといても死ぬんだろ?どっかテキトーに埋めとけばいいさ」
「バンデ!何て事を!」
「だ、だってさあ」
「国の仕事でここに来てるんだから、彼らが戻らなかったら再調査があると思うの。
 そうなるとまた、ここに国の人達が来るんじゃないかな?」
「…そっか、そりゃメンドーだなー…」

 こんな具合に良い案が出て来ず、再び応接室で複数の唸り声が上がった。

 そんな中、姉さんの肩の上で傍観していたターフェアイトが口を開いた。

「要は穏便に帰ってもらえばいいんだろう?
 目的の女魔術師はいなかった。あるいは役に立たなかった、って事にすりゃあいい」
「…何か良い手があるの?」
「サークレットもあるし、あんたなら何とかなるだろう?」

 と言いながら人差し指を向けたのは、姉さんの方だった。
『良い手』とやらが何を指しているのか気が付いたらしい。彼女が一瞬ぎょっとして、何故か頬を赤らめている。

「そうなんですか?」

 リーファが問いかけると、彼女はもじもじと肩を竦め、言いにくそうに口を開いた。

「…わ、わたし、ね。水と氷系統以外にも得意な属性があってね。
 ………せ、精神系の魔術も、一応使えるの」
「精神系っていうと…」

 ターフェアイトが、に、といやらしく嗤った。

「思考を蕩かし、翻弄し、酔わせ、虜にし、意のままに操る魔性の術。
 ───所謂、魅了魔術ってやつさ」

 ◇◇◇

「………ディマス………ディマス………」

 知らない女の声が、自分を呼び覚まそうとしている。
 ふわりふわりと心地よく浮かんでいた体に重みが加わり、現実へと引き戻そうとしている。

 もう少しこの感覚を味わっていたいとは思ったが、何かしなければならない事があった。

(起きなければ…)

 朦朧とした頭を振り、ディマスはゆっくりと目を開いた。

「ああ…起きたのね、ディマス」

 目の前で体を屈めて覗き込んできた女は、やはり知らない女だ。黒く長い髪と紅紫の瞳の女。
 状況を確認しようと目を動かすが、女以外はぼんやりと濁り、周りに何があるのかはさっぱり分からない。

(確か………在野の、魔術師の…回収、指示、が………)

 辛うじて任務の内容を思い出す。
 上司から『石板が示す方角にいる魔術師を探してこい』といい加減な指示をされた時は、『ついにここからも厄介払いか…』と日頃の素行の悪さを少しだけ後悔したものだ。

「怪我はしてない?気分は悪くない?」

(………何様だ………)

 大して知りもしない女に心配される謂れはなかった。ディマスの不快感はすぐに強くなった。

 そもそも、この手の女はあまり好きじゃない。こういう女はアリルの好みだ。
 気が弱そうで、頭が弱そうで、何でも言う事を聞いてくれそうで、尽くしてくれて、庇護欲をかき立てる。ついでに胸がでかい。

「わたし、あなたが死んでしまわないか心配で…」

 ディマスはむしろ、気が強い知的な女の方が好みだ。話が合えば尚の事良い。
 生まれ持った体にケチをつける気はないが、知性が全部胸に持っていかれていないスレンダーな女がいい。

(あの茜色の髪の女は…そう、悪くはなかったな…)

 芯の強さが感じられたあの瑪瑙色の瞳を思い出す。
 ターフェアイトの弟子を自称したあの女と、多少は魔術の議論を交わしてやってもいいと思った。

 ───ディマスはふと、自分が今日何をしていたのか考えた。

 石板の追跡機能を使って、女魔術師がいるという家に入った。

 アリルが失敗して女魔術師を昏倒させたら、いきなり出てきた子供が暴れだしたから大人しくさせた。

 女魔術師の知人だという、茜色の髪の女と話をしたのは覚えている。
 アリルが暴れそうになった事も。
 気が向いて、茜色の髪の女も一緒に回収してやろうとも考えた。

 その後は?
 その後、は───

「…ねえ、ディマス。
 せっかく来てもらって悪いのだけど、ここにはあなたが欲しいものはないの」

 目の前の女が、何かを言っている。

「探していた魔術師は、あなたの役に立たない。
 きっと連れて行っても、あなたは上司に怒られてしまうと思うの」

 上の指示で来ているだけなのだから、仮に間違っていたとしても咎められるはずはない。
 なのに。

「あなたが怒られるなんて…わたし、辛いわ」

 女の頬に、雫が滑って行く。涙だった。

 あれは誰の為の涙か、考えてしまった。
 簡単な事だった。
 ディマスの為の、涙だ。

 ───古い記憶が一瞬よぎった。

『あなたが怒られるなんて…こんなの、間違ってる…!』

 遠い遠い昔。
 自分が無力なばかりに、自分を庇って傷付いた少女。
 同じように涙を流した少女の姿が、そこにはあった───

「…泣くなよ」

 気が付けば、ディマスは女を抱き寄せていた。

 女は驚いていたが、ディマスの気持ちを理解したのか、静かにその身を預けてきた。女のふくよかな肉体が、香りが、ディマスの胸の内に隙間なく埋められていく。

「だ、だって…」

 女の指先が首の後ろに伸びてきて、求めるように、なぞるように動いていく。
 細くてか弱い、守らなければ傷ついて行くばかりの手だった。

「あの石板が示した場所には…誰も、いなかった」

 昔からそうだった。ディマスは、女の涙が苦手だった。
 苦手だったから、守り切れる自信がなかったから、そういった女とは距離を置くようにしていた。
 本当は、守りたかったのに───あの、過去の少女を。

「死んだんだ。
 ゲラーシーから酷い名をつけられて、いいように弄ばれて、嫌になったんだろう。
 目的地に着いた時には、その女は既に死んでいた、と報告する…」

 自分でディマスの先を案じたというのに、女は不思議そうに潤んだ瞳を瞬いている。
 しかし少し狼狽えながらも、女は小さく頷いた。

「そう、ね………それであれば、きっと角が立たないと思う。
 ………ありがとう」

 女の体がディマスの内でもぞりと動く。腕を緩めて解放してやると、女はソファから立ち上がり、ディマスに手を差し伸べた。

「…さあ、アリルが馬車で待っているわ。早く行ってあげて頂戴」
「…ああ」

 女の手を取って、ディマスもゆっくり立ち上がる。まだ視界はやや濁って見えるが、歩けなくは無さそうだった。

 ディマスはふと、自分が今日何をしていたのか考えた。

 石板の追跡機能を使って、女魔術師がいるという家に入った。

 ───だが、家人である女魔術師は、とうに死んでいた。
 亡骸だけがあったのだ。

 可哀想な女の惨めな末路だと、そう思った。
 死んでいるのなら、もうここに用はない。

 目の前に立っている黒く長い髪と紅紫の瞳の女は、ディマスの為に涙を流してくれた無関係な女なのだから。