小説
血路を開け乙女もどきの花
 一足飛びに階段を駆け上がり、ノアは3階の廊下へ到着した。

 3階は、巡回の務めがあるノアにとって勝手知ったる場所だ。
 庭園に面した西側は側女の部屋が、演習場に面した東側は客室が立ち並び、ラルジュ湖が一望出来る北側に正妃の寝室が据え置かれている。
 ここに滞在する事を許された者達は、中央にある大浴場で体を癒し、南側の中庭の花々で心を満たして行くのだ。

 そんな滞在者に配慮して、廊下の壁には不便がなく明るすぎない程度に燭台が灯されている。巡回兵の行き来も少なく、深夜の就寝を邪魔する程ではない。

 今立っているのは、本城西側にある南北に渡された廊下だ。ここから北へしばらく進むと、リーファの部屋の扉があるが───

(っ!)

 廊下を見やって誰もいない事を確認したノアの目は、足元に転がった衛兵の姿に釘付けとなった。

 どうやら下の衛兵同様、眠らされてしまったらしい。行儀よく───転倒したのならばむしろ器用に───真横に倒れて寝息を立てており、ピクリとも動かない。
 そして。

「…そこにいるのは誰だ?」
「!?」

 背中からわずか数メートルという所から発された声。ノアはそれから逃れるように前のめりに飛びのいた。
 動きやすいチェインメイルとはいっても、普段着よりはずっと重く、どうしても可動域は狭い。重量に振り回されるように床を転げつつ、ノアは顔を上げて声の主を睨みつけた。

 声の主である男は、どうやら階段に面した南側の廊下に潜んでいたらしい。ノアが上がって来た事に気付いて、その様子を伺っていたようだ。

(でも、見えているはずは───)

「『見えているはずはない』───そう思わない事だ。
 身に着けている物の音は幻術で消せても、歩いた際に石床から伝わる振動、踏みつけた絨毯のわずかな沈みまでは誤魔化せない。
 それに、それだけべったりと人の形を成した魔力をまとっていればな。魔術師ならば見破る事は容易い」

 ギクリ、とノアは身を竦めた。訓練を受けていた時も、指導をしてくれたリーファから同様の指摘は受けていたのだった。

 この幻術はあくまでノア自身を見えなくするものであって、その周囲の影響まで制御するものではないのだ。おまけに魔力の流れを知覚出来る者ならば、その違和感を目で追ってしまうという。
 故に『魔術に馴染みがない土地で人混みに紛れる使い方が適切』とリーファには言われていて、討伐隊に所属していた時は、街中での偵察が主任務となる予定だった。

(見ただけでここまで分析出来るなんて、この人───)

 壁掛け燭台に照らされた人物には見覚えがあった。というか、恐らくこの城内では結構な有名人だ。

 最初に目についたのは、ラッフレナンドの紋章が刺繍された青い前掛けだった。その左右から出ている肩当てや籠手を見るに、衛兵の一般的な装備であるプレートメイルを着込んでいるのが分かる。

 柔らかく波打つ黄金色の髪は左右で編み込み、後ろで結わえている。気品を感じさせる紫色の瞳は、どこか冷たげにノアを睥睨していた。顔立ちは整っていて、線が細い美形、という言葉がしっくり来るだろうか。

 ノアの頭の中から、この兵士の名前が出かかったその時───

「───あ、いや、師匠。別にオレは、自分の手柄にしたい訳ではなくて…っ」

 ノア以外に誰もいないこの場で、彼は不意に顔を逸らし、おろおろと言い訳をし始めた。

(………うん。やっぱり、変な人だな………)

 いきなり挙動不審になった青年を眺め、ノアは率直な気持ちを胸中で再確認した。

 この青年の名前は、カール=ラーゲルクヴィスト。
 本城の1階で衛兵職に就いている上等兵で、兵士達に魔術指導なども請け負っている男だった。

 リーファに言わせれば『魔術の天才ですごい努力家』であり、兵士達への指導は丁寧で実直、勤務態度も真面目と、魔術に疎いラッフレナンド国にとっては無くてはならない貴重な人材なのだが───時折こうして、側に居る誰かと会話する事がある。

 その誰かとは、どうやら彼の師である大魔女ターフェアイトらしいのだが、そのターフェアイトは一年前に亡くなっている。その為周囲は、『師匠の死を受け入れられないんだ』と傷心の彼をそっと見守る方向でいるらしい。

(でもラーゲルクヴィスト家は、確かギースベルト派だったはず…)

 ”可哀想な人”カールの事はともかく、彼の実家であるラーゲルクヴィスト家はギースベルト公爵家と癒着している。ラーゲルクヴィスト家はごまをすり、ギースベルト公爵家は少しばかりの援助をするという、主従関係のようなものが成り立っていたはずだ。

 カール自身も声高にアランを軽視する発言が見られ、『悪いヤツじゃねえんだが…ちょおっと性格がなぁ』と兵士間でも悪い意味で話題になる人物だった。

 同じ仕事をしているリーファとの仲は悪くないようだが、演技をしている可能性は十分ある。衛兵を昏倒させてこんな場所にいるのだ。リーファを狙っているのは明白だ。

(リーファさんに近づけるのは危険だ…!)

 腰に下げていたロングソードを引き抜いたノアは、おたおたと独白を続けているカールに向かって飛びかかった。