小説
叱って煽って、宥めて褒めて
 次に目が覚めた時、視界に映ったのは学院内のどこかの天井だった。
 天井からこちらを照らす魔力灯、鼻につく薬剤の匂い、真っ白なカーテンが周囲を囲っており、手を伸ばせば寝そべっている場所はフカフカしている。
 あまり顔を出した事はないが、医務室かな、と想像は出来た。

 でも、何故ここにいるのかは分からない。自分はグラウンドにいたはずなのに。

 唇と口の中に違和感を覚え、それが何か分からずにいると、視界の端からヴィンフリーデがひょっこり顔を出してきた。

『あ、気が付いた!』

 破顔した彼女を認めた途端、ぐる、と目が回る。一気に気分が悪くなり、ゲルルフは目を閉じて歯を食いしばり堪えた。

『───ここ、は?』
『医務室だよ』

 分かってはいたが、聞かずにはいられなかった。医務室だと分かって、少なくとも得体の知れない場所ではない事に安堵は出来た。

『無茶したねえ』

 続けて質問を投げかけようとした時、カーテンを退けて入ってきた人物がいた。

 この医務室に常駐している女医だ。白髪に赤いメッシュを入れた派手な見た目の女性は、薄く目を開けたゲルルフを覗き込んで苦笑した。

『グラウンドでやってた打ち上げ花火に参加したんだって?
 キミは、魔力の使い過ぎで倒れたんだよ。
 のめり込んじゃったヤツが多かったようでねえ。そっちのベッド使ってる子も、まだ起き上がれないでいる』

 女医が親指で指し示した先は、白いカーテンに覆われて見えなかった。しかし、時折女性らしき呻き声だけは耳を掠めていた。

 だが、呻き声は隣からだけではなかった。
 医務室のあちこちから、溜息やら唸り声やらが聞こえて来たのだ。どうやら、ゲルルフと似たような症状に陥った者達が少なからずいたらしい。

『もう少し寝ておいで。残業は癪だが、こう患者が多いんじゃ帰るにも帰れん。
 さっき病院に掛け合って、魔力吸入器がじきに届く。それを使えば、寮帰るくらいに調子は戻るさ。
 ───じゃ、お大事に』

 女医はそう言って、一度だけヴィンフリーデに目配せをして、カーテンの先に消えて行った。

 説明が終わり、医務室が思っていた以上に賑やかだった事に気付く。
 恐らくカーテンの向こうでは、不調を抱えた者達とその付き添いの者達で溢れているのだろう。重症だった者だけベッドに運ばれたようだ。

『俺、そんなに…?』

 額に手の甲を当てて顔をしかめているゲルルフを、ヴィンフリーデが心配そうに見下ろしていた。誘った手前、後ろめたい気持ちがあるようだ。

『…全然覚えてないんだね?
 一人三回の制限があったのに、グルフは夢中になって何度も花火を打ち上げて…。
 花火の形も、だんだんおかしくなっていって、皆で慌てて発動体から引き剥がしたの』
『そう、だったんだ…』
『慣れない魔力の動きで、変調を来す人は多いんだ。気持ち良くなったり、逆に悪くなったりする。
 もちろん、慣れれば気にならなくなるんだけど…。
 魔工発展部は、魔術の基礎が出来る人達ばかりだったから………魔力操作に慣れてない人の事を、考えてなかったんだよね…』

 ヴィンフリーデは椅子から立ち上がり、ゲルルフに顔を近づけてきた。

『まだ辛い、よね?今、楽にしてあげるから。ちょっと、我慢して、ね───』

 額に置いていた手を、ヴィンフリーデの細い手が押しのける。
 カーキ色の髪が、ゲルルフの顔をくすぐる。

 スカイブルーの双眸に飲み込まれてしまいそうだ。
 このまま近づいたら、額をぶつけてしまう。そう思ったのに。

 唇に、何かが触れた。
 柔らかく、しっとりとしていた。
 勝手を知っているかのように、それは優しく口の中に入ってきて、歯に、舌に、滑ってきた。

 ヴィンフリーデの体は、ゲルルフにぴったりとくっついていた。
 程よく膨らんだ胸がゲルルフの上半身に乗ってきて、そこでようやくキスされているのだと気付く。

 こんな調子が悪い時に?こんな場所で?何故?と疑問ばかりが降ってわく。

 ただされるがままというのもどうかと思ったが、あまりに唐突で自分の両手をどこに添えたものかも悩んでしまった───その時。

『───ッ?!』

 ざわり、と全身が粟立った。
 空気でも水でもない。口の中から喉へと送られたソレを、ゲルルフは堪らず嚥下した。

 腹まで送られたソレは、通った場所を焼き尽くさんばかりの灼熱感を持っていた。
 目が焼ける。視界がぶれる。四肢の末端が何かを逃がそうと熱を持ち始める。
 焦げるような痛みから逃げる事が出来ず、ゲルルフの体全体を蹂躙していく。

 それから程なく、飛んでいた記憶が無理矢理に掘り起こされ、ゲルルフの体が震えあがった。

 ───発動体とやらに触れた瞬間、足先から頭頂部にかけて湧きあがった高揚感。
 体から力が抜け、揺らいだ視界。

 打ち上がった花火がどんな形をしていたかは分からない。
 でも花火の破裂音を聞いて、今度は焦燥感が脳裏を焼いた。

 足りない。
 足りない。足りない。
 たりない。たりない。たりない。たりない。
 たすけて。

 自分でも止められない衝動は、自分以外を巻き込んだ。

 止めようとした誰かを、振り払った覚えもある。
 体を張って発動体から離そうとしたヴィンフリーデを突き飛ばしてしまった事も、今なら思い出せる。

 それ程までにあの魔術は、美しく、華やかで、魅力的で。
 恐ろしいものだった。
 好きだった人すらも霞んでしまう程の、甘い香りを放つ、毒の果実だった。

 ───どっ!

『ッ!!』

 ゲルルフはヴィンフリーデを突き飛ばし、ようやく我に返った。

 余程大きな音だったのだろう。医務室は静まり返り、何事か、とカーテンを開けて見知らぬ学生が覗き込んできた。

 ベッドの上で仰向けに転んだヴィンフリーデは、痛みに顔をしかめて起き上がろうとしていた。

『いっ…つつ………グルフ───?』
『来るな!』

 はっきりとした拒絶に、ヴィンフリーデは驚いていた。

 体は幾分か楽になっていた。少なくとも、目眩は引いていた。
 多分、ヴィンフリーデがゲルルフを助けてくれたのだと───キスを介して魔力を送ってくれたのだと、頭では理解出来た。
 でも。

『これ、は………これは、駄目、だ…っ!』

 震えが止まらなくなる。焦燥にも似た苛立ちが、ゲルルフを満たしていく。
 どうしようもなく気持ち悪いのに、もっと寄越せと本能が訴えている。
 ヴィンフリーデを壊せ。手足をちぎり、バラバラにして、そこからあふれ出すソレを啜れ───と、囁いてくる。

 どうしようもなく湧きあがる獣性を抑え込もうと、ゲルルフはベッドの隅で体を丸めた。早く静まれ、と何度も心中で繰り返し、衝動を必死に堪えた。

 ゲルルフの異変に気が付き、ヴィンフリーデは恐る恐る近づいて来たが。

『あ、あのね、グルフ。わたしは』
『うるさい!来るな───魔女が!毒婦が!!』

 触れられたらきっと彼女を害してしまう。その一心で叫んだ言葉が、とんでもない暴言だったと、すぐに気付いた。
 獣性に振り切っていた感情の針は、この失態で一瞬だけ理性に傾いた。

 我に返り、は、と顔を上げると、ヴィンフリーデが険しい表情でゲルルフを見つめ返していた。
 いつも笑顔を振りまく彼女が、初めて見せた面持ちだった。

 同時に、彼女が今までどういう境遇だったのか───ゲルルフが発した言葉が、彼女を今までどれだけ傷つけてきたのか、その一端が垣間見えた気がした。

『…ごめん、ね。本当に、ごめん…』

 呼び止める事など、出来るはずもなかった。
 徐に微笑み、一筋の涙を零したヴィンフリーデは、振り返らずに医務室を飛び出してしまった。

 ◇◇◇

 その後、諸々の検査をした結果、ゲルルフは魔力に対して過剰反応を起こしてしまう体質だと判明した。
 魔術や魔力剣などで自身の魔力の流れが激しくなると、特に精神面で異常をきたしてしまう特異体質なのだという。

 他者からの回復・治癒魔術に対しても反応が出てしまうらしく、『魔術社会の聖王都でよく今まで問題が起こらなかったね』と医師に言われてしまった。
 今まで怪我をしても魔術での治癒を避けてきた”魔術嫌い”だからこそ、なのかもしれない。

 補助具などである程度症状は抑えられるようだが、『可能な限り魔術の使用は避けるように』との事だった。

 ───そして。

 友人達に『勇気出して助けてくれた彼女を突き放すとかテメー何様だごらぁ!』とボコボコにされ、ゲルルフはヴィンフリーデに非礼を詫びた。

 ゲルルフのような特異体質の存在についてはヴィンフリーデも知らなかったらしく、互いに頭を下げる形でこの一件は落着とした。

 しかし、以降ヴィンフリーデとの距離を縮める気持ちにはなれず、自然消滅という形で彼女と別れる事となった。