小説
叱って煽って、宥めて褒めて
 ───ゲルルフは後悔していない。魔術はゲルルフにとって、紛れもなく毒だった。
 興味に突き動かされて没頭していたら、将来何らかの形で身を滅ぼしていただろう。
 毒だと認識したものから距離を置く。それは、生き物として当然の生存本能だった。

 だが───

「やはり。起きていましたね、アナタ」

 扉を開けた音は聞こえなかったが、恐らく考えに夢中になっていたのだろう。部屋の入り口の方へと顔を向けると、白いネグリジェにナイトキャップ姿の老女が佇んでいた。

「カサンドラ…」

 妻カサンドラは、持ったランタンの灯りに照らされ朗らかに笑う。

「あれ程の魔術を見た後ですもの。
 昔を思い出して、飛び起きていたんじゃないかと思っていましたよ」
「…笑いに来たのかい?」
「いいええ。
 昔の女を思い出してニヤニヤしていたら、引っ叩いてやろうかと思いまして、ねえ」

(怖っ…!)

 カサンドラの笑顔が途端に怖いものに見え、ゲルルフは身を震わせた。

 妻には、学院時代の思い出をよく話していた。
 ヴィンフリーデの事は『ただの友人』と言い通していたが、やはり女の勘は鋭いもので、『いい年して今尚未練を引きずっている元彼女』と認識しているようだ。

「…ねえアナタ。一度行ってみましょうよ」

 ベッド側のキャビネットにランタンを置き、カサンドラはゲルルフに寄り添ってきた。

「アナタの想い人の所へ、ですよ。
 夢に見る程、別れを後悔したのでしょう?
 同窓会のお知らせも来ていましたし、良い機会じゃありませんか」

 カサンドラが言う通り、聖王領学院の同窓会の知らせは届いていた。
 幹事はレンカ=ツィブルコヴァー───あの、”幻想打ち上げ花火”の発案者だ。

 ヴィンフリーデとはあの文化祭以降距離を置いてしまったが、レンカとは授業が被るようになり、何だかんだで年に一度程度の手紙のやりとりは続いていた。

 聖王領はかなり遠方だから、足腰に自信があっても行くつもりはなかったのだが。

「…まさか、お前もついてくるつもりかい?」

 先の会話が引っかかり訊ねてみると、カサンドラは目尻に伸びたしわを更に深くしてみせた。

「ええ、もちろんよ。
 アナタの想い人がどんな方なのか…。
 老け込んだあちらを見て、アナタがどれだけ落差にヘコむか、見てみたいじゃないですか。
 …ああ。背中が曲がって小さくなったアナタを見て、あちらがどんな顔をするのかも見物ですねえ。
 考えただけでワクワクしてるんですよ?ふふっ」

 華やかな笑顔でしれっと酷い事を言う妻を見て、ゲルルフはがっくりと肩を落とした。若い頃はこんなにキツイ女性だとは思わなかったのに。

「…やはり、女は魔性だなぁ…」
「何か言いまして?」
「いや、何でもない…」

 ゲルルフのぼやきは、カサンドラの圧によって封殺されてしまった。

 今はこんな具合だが、普段の彼女は立場を弁え、一歩引いていられる淑やかな女性なのだ。
 ヴィンフリーデとの思い出と昨晩の幻術によって、心穏やかでいられなかったのはゲルルフだけではない、という事なのだろう。

「ワタシ、アナタの想い人とは話が合いそうな気がするんですよ?
 こんな、未練タラタラで頑固で面倒臭い殿方を好きになるんですもの。きっととんでもない性悪女に違いありませんわ」
「…それ、自分で言ってしまうのかい?」
「ふふっ」

 付き合いたてのカップルでもないのに、カサンドラはゲルルフの手に手を重ね、上機嫌に肩を寄せる。
 まるで『自分のものだ』と主張をするように、彼女のしわだらけの手から脈が伝わってくる。

(良い機会…か)

 気持ちは若い者に負けていないつもりでいても、ゲルルフとてもういい年だ。
 学院にいた頃の知り合いの半数は鬼籍に入ると聞くし、ゲルルフ自身、明日ぽっくり逝く事だって十分あり得る。

 ヴィンフリーデが壮健である事は、レンカから教えてもらっている。
 しかしそんな彼女達だって、そう遠くない未来にこの世を去るのだ。

 思い出さないように日々忙しくしていたが、こうして未練を掘り起こされてしまった以上、何もしない訳にもいかない。

(良い機会…だなぁ…)

 窓を見やれば、既に雲は無く、そして月も窓の隅に隠れてしまった。

 ほんのり明るくなっていく空を眺め、老夫婦は新年の日の出を待ち望む。