小説
魂達の宿借り行脚
「はぁい。終了〜」

 十分くらいはかかっただろうか。
 終了の声が上がりリャナがささっと衝立を畳んでいくと、ソファーベッドに身を預けぐったりしているアランが現れた。

「だ、大丈夫です…?」
「………………」

 恐る恐る声をかけるも、アランから返事はない。足を開いて、背もたれに寄りかかり、右手で顔を覆い、静かに深呼吸を繰り返している。着衣に乱れはなく、眠っている訳でもなさそうだが、反応するには気力が足りていないようだ。

「私に何か、出来る事はあります?」
「………………」

 黙り込んではいたが、つい、と左手の人差し指がアランの膝を指差した。

 座って欲しいのかと判断してアランの膝に腰を下ろすと、左腕がリーファをがっちり掴まえ抱き寄せてくる。
 波打つ金糸のカーテンがリーファの視界を遮ったと思ったら、アランがリーファの頭に顔を埋めてきた。力なくか細い声が、耳朶を撫でる。

「自分を見失いそうになった…」

 その気持ちは、リーファも何となく理解出来た。先の検査で、リーファも堪える事が出来なかったのだから。

「無理強いさせてすみませんでした。
 でも、アラン様が頑張ってくれたおかげで、検査がちゃんと出来たみたいですよ。
 ありがとうございます。すごく嬉しいです」
「…む」

 どうやら検査の頑張りを労って欲しかったようだ。顔は見えないが、アランは甘えるようにリーファにすり寄ってきた。

 ───パンパンッ

 アランの背中をさすって宥めていると、快活に両手を叩く音で我に返る。

「はぁい、みんな注目〜。今から、結果発表しまぁす」

 部屋いっぱいにテスタの良い声が響く。どうやら片付けは終わったようで、リャナはニヤニヤと、ヘルムートは不満そうに腕を組んでこちらを見下ろしていた。

 リーファも立とうとしたが、アランががっちり抱き寄せてくるから無理そうだ。仕方なく、膝の上で居住まいを正した。

「まずは、リーファちゃん」

 名前を呼ばれて、リーファの鼓動が一際強くなった。肩に力が入り、祈るように両手を重ねる。

(何事も、ありませんように…!)

 部屋が静まり返るから、心臓の音がより一層喧しく聞こえる。早くこの不安から解消されたい。その一心で、リーファはテスタを見据えた。

 待つ事しばし経ち───テスタは美しく口角を吊り上げ、高らかに声を上げた。

「ん、異常ナシ!」
「………!」

 朗報が耳を通り抜け、ぱぁ、とリーファの表情が明るくなった。
 心の中にあった負い目や不安は、一陣の風が吹いたかのように即座に取り払われ、肩の力が一気に抜けて行く。

 信じられない気持ちで、リーファは矢継ぎ早に念を入れた。

「ほ、本当ですか?全然?どこも?問題ないんですか?」
「うん、ぜぇんぜん大丈夫。これなら、十人くらいは産めちゃうわよん」

 テスタはにこやかに太鼓判を捺してくれて、リーファはようやく胸を撫で下ろした。
 しかし同時にすごい話もされてしまい、ちょっとだけ萎縮してしまう。

「そ、それはちょっと大変そうですね…?」
「十人か………これは頑張るしかないな」
「む、無理ですよっ!?」

 頭の上でニヤニヤしながら抱き寄せてくるアランに、リーファは顔を青くして抗議した。先の妊娠時もつわりで苦労したのだ。あれが十回もあるなど、考えただけでゾッとした。

(でも…良かった…!)

 十人も産むかはさておき、リーファの体に異常がない事は判明したのだ。今までの日々に落ち度はなかったのだと思えば、幾らでも前向きになれそうだった。

 しかし、そんなリーファの安堵を叩き壊すように、テスタの一言が突き刺さる。

「───で、問題は王サマ」
「………む?」

 リーファを頬ずりしていたアランが、鳩が豆鉄砲を食ったような表情で顔を上げる。

 思わずリーファも見上げると、テスタの色気ある顔立ちから笑みが消えていた。厳めしい、と言うよりは真剣な眼差しで、アランを見据えている。

「精路障害はナシ、機能障害もナシなんだけどぉ………ちょおっと、元気がなかったのよねぇ」
「…私は至って元気だが」
「夜更かししてない?仕事しすぎてない?ちゃんと休んでる?ストレス溜めてなぁい?」
「………」

 しっとりとした声音で問い詰められ、思い当たる節がある、と言わんばかりにアランは渋い顔をした。
 リーファ自身もアランの多忙は心配していたから、思わず身が引き締まる。

「気持ちは元気でも、体はちょっとずつ悲鳴を上げてるものなのよン。
 座りっぱなしも良くないから、まめに体を動かして欲しいのン」

 確かに、アランの仕事は座っての執務が殆どだ。程よく筋肉が乗った体躯をしているから忘れがちだが、運動らしい事をしている姿は見た事がない。
 健康志向とは言い難いアランの生活習慣を、テスタは先の検査で見抜いているようだった。

「子供が欲しいなら、エッチもタイミングが大事。ちゃんと時期を見極めて、無駄撃ちしないようにね。
 …っていうわけで、ハイコレ」

 ベルボトムの尻ポケットにでも入っていたのだろうか。後ろに手を回していたテスタは、優雅な手つきで手のひら程の冊子を見せ、リーファに手渡してきた。
 ペラ、とページをめくると、”月経”や”排卵”などの単語が飛び込んでくる。折れ線グラフなどで推移が示されていて、経過に伴って現れる症状の説明も書かれている。

「…これは?」
「排卵周期のチェックノートよ。毎日、体調や生理周期をメモしていって頂戴。
 それから、ココの計算式を使って計算していくと、次の排卵日が大体分かるようになってるの。
 あとは、排卵日まで王サマに我慢してもらって、エッチすればいいわン」
「おお………こんなものが、あるんですね………ありがとうございます…!」

 テスタからの贈り物に、リーファの表情が緩んだ。
 妊娠しやすそうな時期はいつも大体で見積もってしまうので、こうして数値化されているのはありがたかった。

「ちょおっと脅かしちゃったケド…ふたりとも重篤な症状はなかったからぁ、今のところは様子見でいいわン。
 ちゃんと食事は摂れてるみたいだし、後は運動を意識してやっておくようにねン」
「はい…!」

 先の真面目な表情が霞んでしまう程に、口角を上げて微笑むテスタの姿は輝いて見えた。相手の症状に応じて表情に緩急をつける事で、しっかり相手と向き合う、というのがテスタのスタイルなのかもしれない。

 しかし続けざまの宣告に、リーファの顔から血の気がさあっと引いた。

「じゃあ次の検診は、二人とも一年後に予約しておくわねン」
「「えっ」」

 リーファだけではなく、黙って聞いていたヘルムートも何故か反応している。
 どこにも異常はないのだから、もうお世話になる事はない───そう、思い込んでいたのだが。

「お、終わりじゃないんですか…?」
「終わりじゃないんでーす」
「年を取ったら取っただけ、体調も変化するのよン。悪いトコの早期発見は、マメな検査にかかってるんだからねン」

 二人の夢魔が、楽しむように笑っている。しかし彼女達のそれは嘲笑めいたものではなく、どちらかというと同情心が籠った苦笑いだ。もしかしたらリーファの困惑は、彼女達の界隈ではよく見かける”検査初心者あるある”なのかもしれない。

 気は滅入るが、検査自体は数分で終わるものだし、明確な結果とアドバイスも教えてもらえる。
 一年経っても妊娠の兆候がなければリーファの不安は募るし、ありがたい事に変わりはない。

(一年以内に御子を授かれるように、頑張らないとな………。───あれ?)

 ふと、アランが何の反応も見せていない事に気が付いて、リーファは恐る恐る顎を上げた。

 リーファを膝に侍らせたアランは、ソファに背を預け天井を仰いだまま動かなくなっていた。
 気絶している訳ではなさそうだが、両腕を背もたれに絡ませて完全に無気力状態だ。アランは精密検査までしているし、リーファ以上に苦手意識が植え付けられてしまったのだろう。

 スケジュール帳に何かを書き込んでいるテスタが、時折アランに艶めかしい流し目を送っている。それが獲物を見つけた蛇のように見えたのは、気のせいだろうか。

「ら、来年こそは、精密検査にならないように、頑張りましょうね…!」
「………………」

 リーファから出来る精一杯の応援に、アランは何も応えてくれなかった。