小説
天空の貴人
 本当に一瞬だった。
 リグレットが魔王の鎧の端を軽く撫でると、あっという間に消失した腰から下の鎧が再生されていった。
 神経にも問題がないようで、魔王はふらつきながらもすぐに立ち上がる事ができた。
 さらに驚いたのは風景の方だ。自分で破砕した建物と島をほんの一瞥くれただけで、島の端から木々が、地面の隅から土塊があふれてきて元の姿に戻っていく。
 1分かかったか、かからなかったか。程なく建物の修復も完了した。気づけば、塵一つこぼれていない。
「おっと、こちらも治しておこう」
 ちぎれたリャナのしっぽの先の触れると、しっぽの先がきれいに生えていった。
「それと、こちらはサービスだ」
 リャナの肩を撫でると、上半身に広がっていたヒビもその痛みも癒えてくる。
 しっぽは問題ないが、上半身の方はなんだかムズムズする。かきむしりたくなる。
「…なんかむずむずする」
「そこは僕が刈った場所じゃないからね。刈った場所は元へ戻せばいいが、傷ついた場所は癒すしかない。何、すぐに良くなるよ」
 朗らかに笑うリグレットを見下ろし、何だか納得いかないような気持ちになっているが、
「言いなさい」
 傷は癒えたが服までは戻らない。着ていたマントでリャナの上半身を覆う魔王に促され、リャナは不承不承頭を下げた。
「───ありがとうございましたー」
「どういたしまして」
 リグレットは苦笑交じりにこたえる。
 頬を膨らましてむくれるリャナから視線を外し、魔王はリグレットに尋ねる。
「リグレット殿。先ほどおっしゃっていたが…今までずっと寝ぼけていた…という事でよろしいですかな?」
 子供っぽく照れ恥ずかしそうにしながら、リグレットは小さく首を縦に振る。
「身内もいない身で長らく生きると、どこかでガタが来るものなんだ。
 体を壊せば死ぬだけだが、なにぶん僕は”彼女”に近いから、何とも死ににくい。
 見ず知らずの誰かに殺される趣味もないしね。
 心が死ぬ事がないよう、気分転換に居館ごと世界を回る事にしたんだが…それもあまりに退屈でね。
 居館は自動操縦にして、寝入っていたんだけど…どうやら寝ぼけていたようだ。すまなかったね」
 彼女?とリャナは首を傾げたが、魔王にとっては気にならなかったようだ。
「長命を持て余して休眠する魔物は珍しくありません。あまり気になさいませぬよう。
 …ところで、意識があったのはいつ頃からか?」
「う、うーん。君の顔は…見たか、見たかな?ぼんやり覚えてる気がするけど。
 ああ、竜のお嬢さんが騒いだ事があったかな?あの時も悪いことをした」
「…それは先代の話ですね。50年以上前の話です。私も、話に聞いただけですが」
「そんなに経ったのかい?うんまあ、事実、代が変わっているのだからそうなのか…」
 蚊帳の外に出されかけていたリャナが挙手した。
「はいはーい、質問いいですかー?」
 魔王は大人の会話に割り込んだ事を窘めようと口を開くが、それよりもリグレットの方が早かった。まるで先生のように優しく応える。
「はい、ええと。リャナ、かな?なんだい?」
 挙げていた手を降ろし、両手を後ろに回しながら質問した。
「なんで急に目が覚めたの?
 …多分あたしが原因だよね?フィンって子に、あんまり似てなかった?」
 リグレットは少し困ったような表情をした。言ってよいものか、という感じだ。
 しかし問われたなら答えるべきだろうと思ったか、彼はぽつりと答えてくれた。
「いいや、逆だよ。むしろそっくりだったさ」
 リャナの方に近づいてきて、再びリャナを見つめてくる。
「…うん、そっくりだった…間違い探しをしたくなるほどにね」
 そう言って、リグレットはリャナの髪をなでる。その仕草は子供を愛でる親戚の人のそれだ。
「父親に似た濡れ羽色の髪、母親に似た色白の肌。
 服格好はボンテージ風というか。派手なものが好きだったね。
 ああそれと、体格には恵まれなかったらしくて細身で、胸はつるぺただっけな。
 あの子はそれをいたく気にしていたが…母親に似ればその心配もなかったろうに」
 体型の事を指摘され、ふぐ、と変な悲鳴が上がった。
 周囲の同族は同年齢でも胸の大きい子が多いので、お年頃のリャナにとっては他人事ではない。
 凹凸のない、よく言えばスレンダーな体躯を改めて見てしまい、慌ててリャナはまくしたてた。
「あ、あたしはきっと大きくなったらナイスバディになるもん!母さん胸大きかったし!」
「あの子もそんな事を言っていたっけ。うんうん。そうなるといいね」
 微笑ましくうなずくリグレットを見ていると、尚の事心配になってしまう。
 ちなみに魔王はというと、何やら複雑そうな表情を手で隠して黙していた。
 リグレットの手がリャナの目元に届く。白い、女性のような細指でリャナの目尻をなぞる。
「…それでね、あの子の瞳は吸い込まれるような黒だったんだけど、君の瞳は血の色より鮮やかな紅色じゃないか。そこであれ?って思ったのさ。
 よくよく見れば、魂の形も…似てはいるが、全然別物だ」
「…その女の子、死んじゃったの?」
「さて。あの子はちょっと変わり者だから、今も父親について回ってると思ったんだけどな。
 そういう事もあるんだろう」
 と、リグレットは肩をすくめる。
 魔王は世襲制ではなく、前魔王が亡くなると一定の手順で全ての魔物の中から選ばれるらしい。
 件の魔王が今ここにいる魔王ではなく、先代の魔王でもないのなら、恐らくその娘というのも死んでいると思われるが、リグレットにとってはそうは思わないらしい。
 質問が途切れた事で、話を戻せると思ったようだ。魔王が、リグレットに問いかけた。
「…リグレット殿。よろしいか?」
「うん、待たせたね」
 リグレットも魔王に向き直り、座っていた椅子からようやく腰を上げた。
 魔王が少し怯んでいるのが分かる。恐らく今まで席を立つところを見た事がなかったのだろう。
 朗らかに笑うリグレットに対して、緊張したように体を強張らせ声を低くする魔王。
「…貴方の進む航路は、我々からしても重要です」
「うんそうだね。今後の航路について、打ち合わせをしよう。そして」
 会話中ずっと動かなかったエレベーターが、見計らったとばかりに上昇してきた。
 自動人形3体と一緒に来たワゴンには、ケーキやクッキーなどのお菓子と、紅茶を淹れたポットを用意されている。
「ちょうど、君たちをもてなす準備もできたようだ。ゆっくりして行ってくれると嬉しいな」
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