小説
物語の始まり
 人里離れた小さな村を北へ向かった先の、大きな一枚岩。
 岩肌をつたって時計回りに進むと、一箇所だけ岩の中を通り抜けられる場所がある。見た目はただの岩なのに、触れると突き抜けてしまう不思議な空間。
 水の中を泳ぐような奇妙な感覚を味わいながらその空間を歩き、やがて慣れた空気に触れて目を開ければ、大人一人が歩けるほどの洞窟が広がる。
 一本道でヒカリゴケが照らすとはいえ、足場の不安定な洞窟内をかなり長い時間をかけて突き進むと、上へとはしごのかかった行き止まりに着く。見上げれば、わずかだが人工の明かりが漏れている。
 はしごを上がり、床下から格子を外して這い上がれば、そこは石畳広がる牢獄だ。向かえの牢屋を見れば、いつ閉じ込められたのか、人と思しき白骨が転がっている。
 巡回に来る魔物の足音を聞き分けつつ、鍵のかかっていない格子戸を開け牢獄の入口へと飛び出す。
 最初に目に留まったのは、道なりに並ぶ巨大な魔物の石像だ。翼の生えた異形の悪魔。ガーゴイルとか言っただろうか。
 リャナは知っていた。ここにいる魔物の多くは図体がでかい為、石像の足元に隠れればやりすごせる事を。そして、この石像の並ぶ道の先に、リャナの仇がいる事を。
 何匹かの魔物が通り過ぎるのを石像の影でひたすら待ち、見計らってガーゴイルの守る赤い絨毯の道を走りぬける。
 正面から入れば目的地は長い道のりなのだろうが、近道を使えば仇のいる謁見の間はさほど遠くはない。やがて、物々しい大きな扉のある部屋が視界に入ってくる。扉の脇には巨大な悪魔が控えていて、動く気配はない。
 リャナは持っていた懐中時計を見やる。時間は夕刻の頃合を差している。
 (もう少し)
 辛抱強く、石像の影で隠れているとやがて、時報を告げる割れんばかりの鐘の音が廊下中に響き渡った。扉の魔物を見やると、二匹はあくびを一つして、脇の道へと引っ込んでいく。
 リャナは腰に携えた剣を引き抜き、深呼吸を一つする。盾は持った、鎧は着ている、薬草は持った。魔法とかは使えないけど、無いものねだりしてもしょうがない。
 魔物のいない閑散とした廊下を走りぬけ、強固そうな扉を力限り押し開けた。思いのほかあっさり開いた扉にびっくりして、前のめりにバランスを崩した。
 転がり込むように部屋に飛び込んだリャナは、眼前の玉座にいた魔物の長に剣の切っ先を突きつけた。
「魔王、覚悟しろ!」
 言われて顔を上げた玉座の主は、ちょうど横に控えていた小人の老人のような魔物から書類を受け取っていた。突如開いた扉にびっくりした様子で、扉とリャナを交互に見る。
 しばらく何か考え込んだ様子だったが、やがて魔王は一人納得して、リャナに諭すように声をかける。
「駄目ではないか、こんな夕暮れ時に肝試しに遊びに来ては。ほら、親が心配するから早く帰りなさい」
「…は?」
 リャナの思考が数秒停止する。こっちは敵討ちに来ているというのに、その返し方はなんだろう。なんで魔王に自分と親の心配をされるのか、さっぱり分からない。
「ば、ば、ば、馬鹿にすんな!こちとら、はいそうですかって帰るわけにはいかないんだ!馬鹿!」
 思考をフル回転させて罵声を浴びせたつもりだったが、魔王は少し困った顔をして足を組み替えただけだった。隣に控える魔物───グレムリンに声をかける。
「むぅ、馬鹿と言われてしまった。アズワよ、どうしたものか」
「こういう場合、馬鹿と言った方が馬鹿だ、と言うのが相場ですぞ」
「なるほどな。しかし、ここで私が馬鹿と言ってしまうと、私も馬鹿になってしまうし、それは少々癪だから言う事ができぬ」
「人生、時にままならぬ事もあるものですな」
「全くだ、ははは」
「ほっほっほ」
「笑うなーーー!!!」
 最終的には談笑に発展した魔王とグレムリンに、リャナは叫び散らした。盾を捨て剣を握り締め、魔王に向けて走り出す。
 玉座の手前の階段を勢いよく駆け上がり、二、三段残してリャナの体が宙を跳ねた。一気に魔王までの距離が詰まり、剣閃が魔王の頭上に降りかかる。
 刹那に響く甲高い音。だが、振り下ろされるはずだった剣は、いまだ魔王の頭上にあった。
 魔王はその青白い指だけで切っ先を受け止めていた。玉座の肘掛に乗りかかったリャナがいくら力をこめても、これ以上進む気配は無い。
 剣の先で優雅に口の端を釣り上げた魔王が、余裕の表情を浮かべている。
「ほう、なかなかの剣筋だ。大きくなれば、良い剣士になれるだろう」
「離っ…せっ!」
「そうしたら、そなたは私を切りかかるだろう?」
「当たり前だ!村の皆をあんなにしやがって!」
 魔王は一瞬眉根を寄せる。だが、指先の力が緩んだと思った時には、リャナは持っていた剣を取り上げられていた。魔王の手に渡った剣は宙へと放り投げられ、明後日の方角の床にカランと音を立てて転がった。
 剣を見送った直後、リャナは両手で兜ごと頭を鷲掴みにされて、魔王の顔すぐ側まで引き寄せられる。慌ててその手をはがそうとするが、まるで手が離れない。
 魔物特有の赤い瞳を覆う、雪のような冷たい白銀の睫毛、同じ色の長い髪。全てに釘付けにされる。
 見詰め合ってしばらく。やがて、魔王の口元が不意に緩むのが分かった。
「良い瞳だな。アリシアに───母親に似た意思の強さを感じる。だが、言葉遣いが悪いと、何かと人生損をする事になるぞ。………………うむ、確かリャナとか言ったか?」
「………なんであんた、あたしと、母さんの事知ってるの………?」
 兜を外され、肩まで伸びた波打つような金髪をさらした少女、リャナは、その紅い瞳をまたたいて魔王を見つめる事が精一杯だった。
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