小説
正しいサキュバスの育て方1
 翌日。
 早々に目を覚まし身支度を済ませた魔王が、寝室に顔を出した。日が出て大分経つのに、リャナがまだ起きてこなかったからだ。
 本来サキュバスは夜行性だが、習慣さえ正せば朝起床させる事もできる。勇者の来襲はもっぱら日が出ている間にある為、魔王は勿論の事、魔王を癒す役を担う『アクア・ヴィテ』もまた、人間の生活リズムに合わせている事が多い。
「リャナ、そろそろお日様がてっぺんに昇ってしまうぞ。起きなさい」
 言いながらベッドに近づくと、リャナはまだ夢の中にいるようだった。すやすやと気持ち良さそうに眠っていて、目を覚ます気配はない。
 このまま寝顔を眺めていたい衝動に駆られたが、魔王が統べる領域に今朝方勇者一行が侵入してきた形跡があった為、入城してくる前に出来る事ならリャナを安全な場所に隠しておきたかった。
「リャナ───」
 一向に目を開けないリャナの手を取って───魔王の青白い顔が一層青くなる。少女の手が自分のそれよりも遥かに冷たい。
「リャ、ナ…?リャナ!しっかりしなさい!リャナ!」
 慌てて頬に手を沿えるが、冬場の岩を触っているかのように生気がなく寒々しい。よく見れば、唇も青くなりかけている。布団をはがして胸に耳を当てると、鼓動が確かに、だが弱々しく聞こえてきた。
 歯噛みし、魔王はリャナに布団をかけ立ち上がる。直後、忘れかけていた胸の痛みを思い出し、鎧越しにかきむしる。無駄に広い寝室を覚束ない足取りで歩き、謁見の間へと続く扉に手を伸ばした。
 扉を開けてすぐ、丁度謁見の間へと入ってきたばかりのアズワと目が合った。魔王の険しい顔つきを見て、側近のグレムリンは眉根を寄せる。
「陛下?一体どうされたのですか。その様に血相を変えて…」
「アズワ!医務所から医者を呼んで来い!リャナが───!」
 魔王の只ならない様子に、小柄なアズワが持っていた書類を放り投げて謁見の間を飛び出していく。
 アズワはグレムリンの中でもかなり老齢だが、年齢に似合わない身のこなしと、時には魔物すら迷うこの魔王城を熟知している者だ。下手に使いを出すよりもずっと効率がいい。

 5分ほど経過しただろうか。何とかリャナの目を覚まそうと、頬に触れてみたり頭を撫でてみたり手を握ってみたりしていた魔王の前に姿を現したのは、意外な者だった。
 見た目だけなら10代後半位だろうか。長い黒髪を持つエキゾチックな女性だった。金色の双眸が褐色の肌によく映えていて、そのグラマラスな肢体によく似合う扇情的な衣装に身を包んでいる。
 人間はおろか、魔物ですら、彼女を前にしてひざまづかない者はいない。リリス───サキュバスら夜魔種の長であり、魔王軍元帥の一端を担う女だった。
「───何故、そなたがここに」
 今一番会いたくない者の姿を見てしまい、魔王の眉間にシワが寄る。
 リリスは有事以外は北方の自分の城にいる事が多く、呼び出さない限りは魔王城に寄り付きもしない。仮に呼び出したとしても、化粧やら着替えやらお供選びやらと準備にやたら時間をかける為、到着は数日後というのがザラだ。
 一応、魔王城医務所の管理責任者と大層な肩書きは持っているが、魔王城に来ても医務所には行かない、なんて事も珍しくなかったりする。
 そんな彼女がこの場にいる事自体、奇跡以外の何物でもなかった。.
「そろそろお呼びがかかる頃だと思いましてな………………アズワ様、少し席を外して頂けますかな?」
「…分かりました。くれぐれも、良しなに」
 心配そうな表情のアズワは恭しく一礼し、寝室を後にする。その姿を目で追いかけ、扉が閉じられてようやく、リリスはリャナのいるベッドへと近づいた。
 リリスはリャナを一瞥し、次に魔王を見下ろした。椅子に座った魔王は憔悴し切っており、狼狽の表情が見て取れる。
 そして───何の前触れもなく、唐突に、リリスは魔王の横っ面を引っ叩いた。
 部屋中に響いたのではないだろうかと思われる派手な音と共に、魔王の体が斜めに傾く。だが、椅子から転げ落ちる事はなく、魔王はどうにか足で踏ん張った。
「そ、そなた、一体何を───」
「自分をこんなにした魔王を、リャナに代わって懲らしめてやっただけじゃが?ほれ、さっさと顔を寄越せ」
 さっきまでの丁寧な物腰はどこへやら。リリスは尊大な態度で抗議の言葉をねじ伏せて、今度は魔王のアゴを掴んで噛み付くようにキスしてきた。
 抵抗しようともがいた魔王だったが、胸に広がっていく異常な熱気に一瞬目の前が真っ白になる。リリスが口の中で舌を滑らせる度に、膨大な量の生気が魔王の中に流れ込んでくる。
 どれほど経ったか。気付いた時、魔王は椅子から転がり尻餅をついていた。どうやら意識が飛んでいる間に、突き飛ばされたらしい。
 床からのろのろと這い上がる魔王を気にも留めず、リリスはベッドに乗りかかりリャナの容態を調べていた。頬、唇、首筋に指を滑らせていくが、リャナは全く反応しない。
 立ち上がった魔王は自分の体を不思議そうに眺めながら、ただただ感嘆の声を上げた。
「…さすが夜魔種の長、言うべきか。一度の『アニマート』で、全ての傷を塞ぐとはな」
「ふん、それで褒めたつもりかえ?」
 リリスが返す言葉は相変わらず素っ気無い。
 皆がいる時は礼節を持って接してくるのだが、魔王と二人っきりになると急に態度を翻してふてぶてしくなる。本当にいつもの事なので慣れてはいるが、本当にいつもの事なのでヘコむ事もたまにある。
 魔王は精神に影響を及ぼす魔術が利かない為、彼女が得意とする誘惑の術『ベルカント』も効果がない。術が利かない事が面白くないのではないかとは思うのだが、こればかりはどうにもならないのが実情だ。
「…………………それで、いつ気付いた。私が、深手を負っていた事を」
 リリスが指を止め、リャナの首にかかっていた物を取り外していた。ネックレスの端についていたのは、少女の小指位しかない、とても小さな鍵。
 ───昨日入城していた勇者一向に、魔王は大きな痛手を被っていた。左腕は魔術で焼かれ、右足は凍傷を起こしかけた。そんな中、胸に受けた傷は背中まで貫通しており、血も相当量流れた。
 魔王の鎧は自身の魔力であり肉体そのものでもある。勇者らをなんとか撃退した後、鎧で覆いなおす事で出血は止めたが、損傷した内臓までは時間をかけて癒す他なかった。
 癒しの術『アニマート』は、ひとえに術者のさじ加減で治癒量が決まる。魔王の受けた傷を全て癒したという事は、リリス自身がどれ程の傷を負っていたかを知っていなければならない。
 正直、色よい答えは露ほども期待しなかった。が、振り向いて口を開いたリリスから返されたのは、魔王の想像の範疇を超えた他愛のない質問だった。
「…魔王よ。リャナの日記はどこじゃ?」
「…は?」
「リャナが毎日書いていたじゃろう。ぐずぐずせずに早う出せ」
「あ、ああ。それなら…………多分、リャナの枕の下に」
 苛立たしげに眉をしかめるリリスの横を抜け、魔王はリャナの枕の下に手を伸ばした。あまりのこき使われように、もはやどちらが目上か魔王すら分からない。
 程なくリャナが書いていた日記を捉え、手元に引き寄せる。
 子供が使うにはあまり仰々しい凝った装丁の日記だ。厚さもかなりあり、本棚に入れれば伝記物の小説などと間違えられそうな風情がある。表紙の下の方に刃物で削ったような筆跡でリャナの名前が彫られていた。
 魔王が日記をしげしげと眺めていると、リリスは器用に魔王の頭上から日記を掠め取った。振り返ると、皮翼を広げて床に着地したリリスが、リャナの首に下がっていた小さな鍵で錠を外している。
 小さな錠と鍵をぞんざいに床へ落とし、日記を開こうと指をかけたリリスを、慌てて魔王が止めに入った。
「ち、ちょっと待て、リリス」
「なんじゃ。わらわは今忙しいのじゃが」
「その日記は、その、読むなとリャナから言われていてだな。それを読もうとしたら、私はえっちなのだとかと言われて」
「うむ、言われたのはおぬしなのじゃから、わらわにはなんら関係ない事じゃな」
「そ、そうかもしれないが」
「それに、わらわはサキュバスら夜魔種の長ぞ。えっちで何が悪い。むしろそうでなくてはおかしいではないか」
「む、むう、それは、そうだな」
 一人納得しかけている魔王を差し置いて、リリスはさっさと日記を開いていた。書かれた最後のページを流し読みして満足げに笑ったかと思えば、その日記を魔王の方へ乱暴に投げつける。
 虚を衝かれながらも何とか日記を受け取る魔王の眼前に、リリスは手を差し出した。彼女の空の手が光を帯び、その上でホログラムが形を成して行く。
「これ、なんじゃと思う?」
「何って…この日記では───」
 悪戯っぽく笑うリリスを見て、魔王は怪訝な顔をした。そこに映っているのは、今自分の手の中にある日記と同じものだった。厚み、表紙の模様、タイトルも全く同じもの───否。
「───表紙に、リャナの名前がない」
 手元の日記の表紙の下にあるリャナと記された彫り物。それが、彼女のホログラムには彫られていなかった。
「荷物になる故持っては来ぬかったがな。『チャットノート』という本の事は知っておるな?」
「使った事はないが…確か、魔物達の間で交換日記に使ってる本だろう?」
 ホログラムを消し、リリスは静かにうなずく。その姿は、出来の悪い生徒に指導している教師のようだ。
 大きさ、ページ数、表紙の作り、それら全てが同一の本に特殊な術をかける事で、一方のページに記した文章がもう一方の本にも反映される本となる。当初は戦場へ出向く将校に持たせた戦況報告書だったが、汎用度の高さから魔物の間で交換日記などにも使われるようになった。
 チャットノートはページの内容のみ他のノートに反映する為、術をかけた後表紙に名前を書いてもそれが反映される事はない。リリスの映し出した本にリャナの名前が入っていないのはそういう理由らしい。
「リャナに日記を持たせたのはそなたか、リリス。それで、自分の手元にある日記で、私の情報を逐一チェックしていたのだな」
「さすがに、『アクア・ヴィテ』の役を半人前のサキュバスに任せるのは心許無かったからのう………ん?読まぬのかえ?」
「……………………」
 自分の手の中にある日記を見下ろし、魔王は居心地悪そうに目を逸らした。本当は読みたくて読みたくてたまらないが、日記を開いたらリャナに何と言われるか。
「ああもうじれったい。わらわが許す、読め」
 業を煮やしたリリスが、魔王から日記を奪って適当なページを開き、その顔面に叩きつけた。目を白黒させていると、鼻の先で女子供特有の愛らしい字体が飛び込んでくる。
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