小説
贈り物には黄色い薔薇を・09
 火曜夜。
 薄い雲に隠れおぼろげに照りつける月の光。蜃気楼にも似たあやふやな輝きが、ロアの町を優しく灯している。
 町の入口から西の小道を抜けた先にある酒場、通称「悪魔のぼったくり亭」。夜が更け始めた頃合で、人もまばらな酒場の中、那由羅は一人グラスを煽っていた。
 ちょっと飲みに行くだけだから───そう言ってあるので、リーンもペットも連れていない。今回の一件でここしばらく飲みに出かけていなかった為、不機嫌ながらもリーンは何も言わずに見送ってくれた。
 ペットもおらず楽器を持っていないこんな状態では、仕事の依頼をしてくる者もいない。彼は気が気じゃないと言ってはいたが、娯楽に集中できる分、彼女からすれば気楽なものだった。
「あんまり飲みすぎると、演奏に響くんじゃない?」
 呼びかけられた声に、空になったグラスをなぞる那由羅の指がぴたりと止まる。
「…まだ飲み始めたばかりよ。ちょっと飲むと、曲もいい感じで弾けるのよ」
「その割には顔が赤くなってるけど?」
「まだ一杯目だってば───まぁ、ここの所忙しかったから、疲れてて酔いが回りやすくなってるかもしれないけどさ」
「それは…………ごめん」
 声の先へと振り返ると、フレンドの男性楽師がいた。彼はバツが悪そうに頭を掻いて、那由羅から視線を逸らす。
 頼んでいた二杯目のグラスがテーブルに置かれ、彼女はすぐにそれを取った。
「なんで謝るのよ。何も悪い事してないじゃない」
「…あの時、ちゃんと村長さんに言っておけばよかったかなって───その、弦の寿命が近づいてた事をさ」
 表情を暗くする彼を見上げて、那由羅はグラスを軽く揺らす。中に入っていた氷が、カラン、と硬い音を鳴らす。

 ───調弦をして、色々資料をあたっていた時、那由羅も寿命の可能性は視野に入れていた。
 今朝彼が話したハープの置いていった理由で仮説が確信に変わり、彼が帰ったあとに届いた手紙で確信は正しい事が証明されていた。
 ハープの弦は、村長が使う使わないに関わらず近いうちに切れてしまう事を、彼自身は知っていたのだ。

「気にしないでよ。弦の調達も出来たし、調弦も間に合った。あとは『何も知らない』あなたが、戻ってきたハープを受け取ってめでたしめでたし、でいいじゃない」
 言いながら、彼が連れてきたスカイドラゴンのアゴをなでる。くるるっ、と声をあげて、スカイドラゴンは那由羅にすりよった。
 男性楽師も席に座って、注文したお酒を一口飲んだ。あまり飲みには行かないようだが、決して弱いわけではないらしい。
「あとは、スカイドラゴンちゃん貸してくれて、アレ返してくれれば、私はもう言う事はないんだから………持ってきてくれた?」
「…よく僕が持ってるって分かったね」
 感心したように溜息を漏らす彼は、テーブルの上に身の丈ほどの大きさの楽器ケースを置いた。
「さすがに───森で私が弾いた、あの曲を聴かされちゃあね。まぁ持ってるかどうかは、ただのカンだったんだけど」
 ケースを開け、彼から手渡された楽器───白の森に置き去りにした自分の二胡───を眺めながら、那由羅はグラスに揺れる琥珀色の液体を喉に流し込む。

 ───話は月曜の夜までさかのぼる。
 彼は一人、白の森へと赴いていた。特別な理由はなく、ただ帰路へ着く為の近道が目的だった。
 この頃は旅行く楽師の姿もすっかり見なくなったので、顔見知りの楽師に出くわして楽器無しをからかわれるのを避けたかったのも確かだった。
 何故か若干焦げた匂いのしたマンティスアントと遭遇し、何とかやり過ごそうと茂みに隠れた時、彼はあるものを見つける。
 そして───南東の方から、聴き覚えのある音色と、聞き覚えのある声音が響いてきた───

 気付けば酒は進み、那由羅は四杯目の、楽師は二杯目の杯を飲み交わしていた。
 酒場の中は客の数も増え、にわかに活気付いている。もうしばらく経てば、小銭稼ぎの為に酒場へ出入りする楽師や旅芸人が顔を出すだろうか。
 ふと、退屈そうにあくびをしているスカイドラゴンを見やって、彼が尋ねてきた。
「ところで、僕のスカイドラゴン借りてどうするんだい?」
「ん、ああ。昨日の戦闘で水の精霊の機嫌を損ねちゃってね…ニジマグロ五匹釣って納めないといけないのよ」
「バザーを頼っちゃダメなの?」
「ダメらしい。自分の腕でなんとかしろってさ───さて、そろそろ行くかな。スカイドラゴンちゃん、借りてくね」
「ああ、ちょっと待って」
 席を立ち、スカイドラゴンを連れて行こうとした時、彼に呼び止められた。振り向けば、彼はハープを片手に愛嬌のある笑顔を向けている。
「せっかく、二つの良い楽器、二人の腕利き楽師が揃ってるんだ。一曲くらい、振舞ってもいいじゃないか?」
 ハープの弦を軽く弾くと、深みのある軽やかな音色が響き渡る。
 音に惹かれたのか、客の何人かがこちらを見て、手拍子を打って囃し立てている。
 徐々に広がる、ある種の熱気がこもる周りの様子とは対照的に、彼の顔は爽やかそのものだった。
「リーンちゃんと約束した、歌詞も覚えないといけないしさ」
「いやまぁ、そっちは私には関係ないんだけど…」
「…友達の楽器の弦を切った挙句、内緒で弦を直そうとしたのは誰だっけかなー?」
「う………」
「他にも、村長さんの花嫁姿の話とか、弦の材料の話とか聞きたかったけど……歌詞さえ教えてくれれば、僕もこれ以上詮索はしないさ」
 思い出したくない事を言われ、那由羅は思わず口を押さえる。弦の話はともかく、村長の話をしたら、一体どんな言葉が返ってくるか。怖すぎる。
 さほど長くない時間の中、とうとう彼女は諦めてテーブルの上に腰かけた。
「…歌詞は作り途中だったから、あんま自信ないんだけどな」
 二胡を構えると、楽師がハープで伴奏を弾き始める。那由羅は二胡で主旋律を奏でると、酒場の喧騒が少しだけ静かになる。

 ───そして。彼女の声音が、深い闇が支配する月夜の町を緩やかにこだましていく。
- End -
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